大伯皇女、斎王になる


 『日本書紀』は、巻によって微妙に表記が変化します。大伯皇女のことに限って見ても、誕生記事のある「斉明紀」では「大伯皇女」、斎王卜定の記事の「天武紀」では「大来皇女」、後に伊勢からの帰還を記す「持統紀」では「皇女大来」といったように変化しています。

 『日本書紀』は舎人親王を総責任者として、その下に多くの人が集められて編纂されたわけですから、巻ごとに編纂者が違ったんだろうと思います。きっと古代史やっている人にはこれぐらい常識なのだろうけれど(^^;

 それはともかく、大友皇子を死に追いやり壬申の乱に勝利した大海人皇子は、即位して天武天皇となりました(大友が即位したかどうかは不明です。天武系にによって編纂された『日本書紀』においてはその即位は記されていません。後に明治政府によって天皇位についたとされ、弘文天皇という名が贈られました)。それとともに都を大津から飛鳥浄御原に移し、さまざまな新政策・新制度を打ち出していきます。

 大来皇女を天照大神の宮に遣りて侍らせむと欲し、泊瀬斎宮に居らしむ。
(『日本書紀』天武紀、天武2年4月14日条)

 大伯が斎王に卜定されたのも新制度の一環だったのでしょう。『日本書紀』には垂仁天皇の娘である倭姫命が初代の斎王であると書かれていますが、例えば舒明天皇から天智天皇に至る時代には斎王関連の記事がなく、どうやら斎王がいなかったそうです。その前に斎王のような存在がいたとしても時代に大きな隔たりがあります。そんなところから、制度として整えられた初代の斎王は大伯と見て間違いないのではないでしょう。以降、後醍醐天皇の娘の祥子内親王にいたるまで、約660年間に67人の斎王が卜定されました。

 ちなみに「泊瀬斎宮」というのは、上の『日本書紀』の記事の後に

 是れ、先づ身を潔めてやや神に近づくの所なり。

とあって、伊勢神宮へ参る前に潔斎をする場であることが分かります。『源氏物語』には、斎王に選ばれた六条御息所の娘(後の秋好中宮)が「野宮」という場で潔斎をしますが、泊瀬斎宮はこの野宮の前身にあたると考えられています。現在、奈良県桜井市にある小夫天神社がこの泊瀬斎宮の跡とされ、祭神の1柱に大伯皇女も入っています。

 大来皇女、泊瀬斎宮より伊勢神宮に向かふ。
(『日本書紀』天武紀、天武3年10月9日条)

 大伯は泊瀬斎宮で1年6ヶ月の間潔斎をした後、伊勢神宮に向かいました。ところでこの時に大伯が斎王に卜定された理由については、『年中行事秘抄』の勘物に

 白鳳元年四月十四日、大来皇女を以って伊勢神宮に献ず。合戦の願に依るなり。

とあるため、前年の壬申の乱の戦勝祈願に対する返礼だと伝えられています。しかし、ここで大伯が選ばれた理由について私としては分からないことがあります。

 当時、皇子皇女はその生母の身分によって、かなり扱いが異なっていました。例えば、天武の長子である高市皇子は、壬申の乱で活躍した武人ではありましたが、『続日本紀』において天武の皇子10人の中で8番目とされています。高市は太政大臣に任じられ皇太子に擬せられたという説もあるものの、結局公式には皇太子にもなってはいません。なぜなら高市の母は地方豪族出身の胸形尼子娘、いわゆる「卑母」だったからです。

 大伯に続いて斎王に任じられた当耆皇女、泉内親王、田形内親王の三人も母親はいずれも「卑母」とされる皇女たちでした。泉内親王に至っては壬申の乱において敗者になった天智の娘です。やはり伊勢は都から遠い土地であるため、身分の高い皇女を送るのは憚られたのでしょう。

 しかし、大伯の母は大田皇女。天武天皇の皇后である鵜野讃良皇女の同母姉であり、大田皇女が若くして亡くならなかった場合、まず皇后になったことは間違いないという人物です。それでいながら大伯が斎王に卜定されたのには、大伯が結婚した場合にその姻戚関係によって大津を後援する勢力が生まれるのを恐れた、鵜野讃良皇后の思いが働いているのかもしれません。

(written on 2001/12/22)


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