大津皇子、大津宮を脱出


 大伯皇女と大津皇子の父親である大海人皇子は、その兄・天智天皇が即位したときに、皇太弟として立てられたと『日本書紀』には書かれています。当時すでに皇太子・皇太弟といった地位がはっきり存在したのかなどいろいろ疑問点は多いところなのですが、大海人が有力な皇位継承者であったことは事実でしょう。

 しかし天智は晩年、息子の大友皇子へと気持ちが傾いていったようです。天智は大友を新設の太政大臣に任じたりと、大友への優遇策を取っていきました。それに対し大海人は不満を募らせていたらしく、宴席で天智に向かって矛を振り回すなどという事件も起こったといいます。その時は中臣鎌足の執り成しで双方納まったそうですが。

 天智の死の直前、譲位を持ちかけられた大海人は何かの策略だと判断し辞退、出家して吉野へ引きこもりました。そして天智の死後、王権奪取を目指して挙兵、東国へ旅立つことになります。古代最大の兵乱である「壬申の乱」の始まりです。

 大津はそのころ大津宮にいましたが、父の決起にあわせ大津宮を脱出、鈴鹿関で合流しました。鈴鹿関は古代の重要軍事拠点である三関のひとつですが、大海人は東征2日目にして、この関を抑えていました。そのときの記事が次のもの。

 是の夜半、鈴鹿関の司、使を遣わして奏して言ふ、「山部王・石川王、並に来帰れり。故、関に置らしむ。」と。天皇便ち路直益人を使わして徴さしめたまふ。
 丙戌、
……是の時、益人到りて奏して曰ふ、「関に置かれし者は山部王・石川王に非ず。是れ大津皇子なり。」と。すなわち益人に随ひて参り来たり。
(『日本書紀』天武紀、天武元年6月25日条〜26日条)

 大津はどうやら名前を隠して鈴鹿の関まで来たようなのです。といっても、当時大津は数え10歳なので、たぶん付き従っていた者たちがそうさせたのでしょうが。やはりこれは、大津が「天命開別天皇(天智)の愛す所と為」っていたために、大海人側に対して受け入れられないかもしれない、という予想も成り立ったからではないでしょうか。ここはよく大津と同様に大津宮から脱出して父のもとへ向かった大海人の長男・高市皇子の合流の記事と比較されて論じられる箇所です。

 ちなみに、このとき大伯はどうしていたのかを物語る史料はありませんが、多分、大津宮に残されていたことでしょう。

(written on 2001/12/22)


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