大田皇女の埋葬


 大伯皇女と大津皇子の母・大田皇女は天智天皇の娘ですが、『日本書紀』には死亡記事が見当たりません。ただし、

 天豊財重日足姫天皇(斉明)と間人皇女を小市岡上陵に合せ葬る。この日、皇孫大田皇女を以って、陵の前の墓に葬る。
(『日本書紀』天智紀、天智6年2月27日条)

という記事に書かれてるように、天智6年(667)に大和に戻った天智によって、斉明天皇(天智の母)・間人皇女(天智の妹。孝徳天皇の皇后)とともに大田が葬られていることから、それ以前の百済救援に出かけている途中に死亡したと考えられています。

 この時点で大伯は7歳、大津は5歳です。幼くして母を失った2人の姉弟は、母方の祖父である天智に引き取られたのではないでしょうか。当時の父親というのは、まず子どもの養育には関わりません。だいたい当時は通い婚であり、天皇もキサキの家を訪ねて回っていたみたいです。天武ぐらいから、そのあたりの制度は微妙に変わり始めるそうですが、それでも天武の若いころは通い婚と考えてかまわないでしょう。ともかく日本古代において、子どもは母方の家によって養育されるのが基本らしいのです。

 後に大津について『日本書紀』は「天命開別天皇(天智)の愛す所と為る」と書いていますが、これはやはり天智に引き取られていたためではないでしょうか。

 そして私は、公衆の面前で蘇我入鹿を暗殺してのけた陰謀家の天智も、孫には甘かったという想像を持っています(笑) 天智の娘は4人も大海人の妃になっていますが(大田皇女、鵜野讃良皇女、新田部皇女、大江皇女)、その中で大伯は天智の初孫です。

 一時期流行った演歌『孫』の唄うが如く祖父バカな帝王天智。想像するだけでも、歴史上の人物が随分身近に感じられるものです(^^)

(written on 2001/12/22)


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