大伯皇女の誕生


 斉明7年(661)、前年に新羅によって滅ぼされた百済の遺臣を救援するため、時の斉明天皇や中大兄皇子(皇太子。斉明の息子。後の天智天皇)は九州へ向け出陣していました。そして大伯の父である大海人皇子(中大兄の弟。後の天武天皇)と母の大田皇女(中大兄の娘)もまた従軍していました。大伯皇女はその陣中で生まれたのです。

 御船、大伯海に到る。時に大田姫皇女、女を産む。仍りて、この女を名づけて大伯皇女と曰ふ。
(『日本書紀』斉明紀、斉明7年正月8日条)

 当時の皇子皇女の命名には、養育に当たった氏族のウジナが付けられるのが一般的であったそうですが、大伯の場合は、わざわざ『日本書紀』にその生まれた大伯海(今の岡山県邑久郡牛窓町付近)の名によって大伯皇女と名付けたことが明記されています。これは彼女の名前に特別な意味があったことを物語っています。

 たぶん、「大伯」の名は百済救援のために立ち寄った土地の名であることを記念するために名付けられたのでしょう。当時の遠征軍の実質的に指揮していたのは、皇太子であった中大兄であったと思われますが、彼が自らの娘の産んだ初孫に遠征を記念する意味で「大伯」と名付けたのではないでしょうか。

 大伯海の辺りは今は牛窓と呼ばれていますが、神功皇后の三韓征討に関する伝説が残っているそうです。神功皇后の伝説も、結局は朝鮮半島との関係のものです。これは大伯海が朝鮮へ軍事出兵するさいの拠点、もしくは通り道となる重要な場であったことを示しているのではないでしょうか。ちなみに神宮皇后伝説は、斉明朝に行われた朝鮮遠征の途中での出来事がモデルになっているという説もあります(上田正昭『日本古代の女帝』)

(written on 2001/12/22)


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