父鎌足の廟・妙楽寺建立


 『多武峯縁起』は和州多武峯寺(現在の談山神社)の建立の由来と、霊廟に祭られた藤原鎌足の伝記です。絵巻も存在します。その性格上、半分以上が鎌足の顕彰、特に打倒蘇我氏について費やされているのですが、ここでは定恵に関して書かれている部分だけを概説します。


【『多武峯縁起』による定恵】

 蘇我氏宗家が滅亡し、孝徳天皇が即位した大化元年(645)。中臣鎌足は功により、大錦冠の位(冠位十三階の第7階。後の四位程度)と内臣の官を与えられ、国の機密を扱うよう任じられた。合わせて、懐妊中の寵妃を与えられ、「生まれた子が男なら臣の子、女なら朕の子とする」と言われた。

 果たして生まれたのは男であった。そのため鎌足の長男とされた。これが定恵である。僧恵隠を師として出家し、和尚号を与えられた。そのころ、父・鎌足が密かに告げた。「大和国の談峰(後の多武峯)は勝絶の地であり、四方を霊峰に守られている。唐の五台山にも劣らぬ。我が墓所を此処に定めば、我が家は子々孫々に渡って繁栄するだろう」 定恵はこの言葉を聞いて、五台山を見るべく、天智6年(667)に唐へ渡った。

 定恵は唐で学んでいた時、談峰で鎌足が現れる夢を見た。その鎌足が定恵に告げた。「私は今天に上った。お前はこの地に寺塔を立てよ。そうすれば私がその塔へ下って、我が子孫を守り、仏法を広めさせよう」 定恵は父のために、清涼山宝池院にある十三重の塔を写し、霊木を材木として集めた。その他の材料など全て唐で集めて帰国しようとしたが、帰りの船が狭いので一重の材のみは仕方なく、唐へ残して帰国することにした。

 帰国した後、定恵は弟の不比等に「父の墓所はどこか」と聞くと「摂津国阿威山です」と答えた。定恵は不比等に、唐で見た夢の中で鎌足に語られたことを聞かせた。すると、不比等は感涙した。定恵は25人を引き連れて阿威山へ登り、遺骸を掘り、談峰へ移した。

 そして定恵は、遺骸を移した上に塔を建てたが、持って帰れなかった材のため足らず、十二重となってしまった。そのことを歎息していると、夜間に雷鳴が轟き、大雨大風が吹いた。明朝は忽然と晴れ、塔を見ると材瓦が積み重なっていた。それは唐に置いてきた材と全く変わりなく、昨晩のうちに飛んで来たことが分かるのであった。定恵は感動して地に伏した。

 その後、塔の南に三間四面堂を建て、妙楽寺と号した。これが後の講堂である。多武峯寺の創建の話である。


【書き下し文/定恵に関する部分のみ】

(前略)
 同日(大化元年6月14日。孝徳天皇即位日)、中臣連を以て大錦冠を授く。あはせて内臣を授く 年三十一 。内臣は准大臣の位也。又二千戸を封じ、軍国機要の公処分を任ず。又懐妊の寵妃を賜ふ 車持夫人と号す 。然るに其れ孕むこと已に六箇月なり。詔して曰ふ、「生まれる子、若し男ならば臣の子と為せ。若し女ならば朕の子と為す」と。堅く守りて四箇月を送り、生まれたる子男也 定恵和尚是れ也 
(中略)
 定恵和尚は中臣連の一男、実、天萬豊日天皇の皇子也。大化元年 巳乙 、誕生す。沙門恵隠に請ひて出家し師と為す。斉明天皇、仁王会に修められし日、和尚号を賜ふ。父・中臣連潜かに告げて云ふ。「和州談峯は勝絶の地也。東・伊勢高山、天照太神、和国を防護す。西・金剛山、法喜菩薩、利生を説法す。南・金峯山、大権薩捶、慈尊出世に侍り。北・大神山、如来垂跡、黎ろの民を抜き済ふ。中・談峯、神仙霊崛。豈に五台と異ならんや。墓所此の地に点めば、子孫大位に昇らん」と。和尚、斯の言を聞きて、五台を拝さんと為し、天智六年 丁卯 入唐す。
(中略)
 定恵和尚唐に在る時、夢に云ふ、「吾が身忽ち談峯に居り、父大臣告げて言ふ、『吾、今天に上る。汝、此の地に寺塔を建て、浄業を修めよ。吾、当峯に降神し、後葉を擁護し、釈教を流布せしめん』」と。
 定恵和尚、塔婆を先公の墳墓の上に起こさん為、清涼山に攀登し、宝池院十三重の塔を移し取る。霊木一株を以て
 或いは云ふ、栗の木云々 其の材木と為す。
 定恵和尚、十三重の塔の材木瓦等調へ儲け帰朝を欲する処、乗船狭きに依りて、一重の具、留めて棄て海を渡る。
 定恵和尚、帰朝し弟・右大臣不比等に謁へ問ひて言ふ、「大織冠の聖霊御墓所、何れの地哉」と。答へていふ、「摂津国嶋下郡阿威山也」と。和尚言ふ、「平生、約し契ふこと有り。即ち大織冠の御約言ならびに唐に在りし間の夢の状に具ふ」と。大臣之を聞き、信じ伏して稽首し、涕泣して已まず。
 和尚、廿五人を引率して阿威山の墓所へ参り遺骸を掘りて取る。手自り頚に懸け、即ち、涙を落として言ふ、「吾、是れ天萬豊日天皇の太子なり。宿世の契りをし、陶ひ家の子と為る」と。役人土を荷なひ、談峯を攀登す。
 和尚、談峯に攀躋し、御骨を□め奉りて其の上に塔を起こす。歎ひて言ふ、「材瓦、備はらず。所願何遂」と。漸く十二重に及ぶ。歎息して措くこと無し。夜半、雷電霹靂して、大雨大風あり。忽然天晴れり。明朝之を見るに、材瓦積み重なり。形色、異なること無し。飛び来たることを知る也。和尚、咸な然りとして地に伏す。見聞奇異なり。
 年経した後、塔の南に三間四面堂を建て、妙楽寺と号く。此の定恵和尚の建てし所、今の講堂、是れ也。之を以て多武峯の創建と為すのみ。

(後略)

(written on 2004/03/16)


トップ定恵>父鎌足の廟・妙楽寺建立
「世の中に昔語りのなかりせば―」
http://funabenkei.daa.jp/yononaka/