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定恵関係略年表
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中臣鎌足は小学校の歴史でも習う、古代史の最重要人物の一人です。「法興寺の蹴鞠会で中大兄皇子の沓が蹴った鞠と共に脱げ、それを鎌足が拾った」という出会いを果たした二人が後に蘇我氏を滅ぼす、というのは余りにも有名なエピソードだと思います。 余りに有名すぎるために小学生時代には「中臣鎌足って、"生ゴミの塊"に似てる〜」なんて言ってた友だちもいました(笑) 鎌足に申し訳ないです(^^;) 有名人だからこそ、そんなことも言われるんですけれどね。同様のネタには上杉謙信の"飢え過ぎ謙信"とかもありました。 話を戻しますが、蘇我氏を滅ぼした後、鎌足は中大兄の片腕として政治に取り組みました。鎌足の死の直前、天智天皇(中大兄皇子)は鎌足のこれまでの労に報いるべく最高の冠位である「大織冠」と「藤原」の姓を贈りました。こうして始まる藤原氏ですが、鎌足の跡を継いだ二代目の藤原不比等は父に劣らず右大臣として朝廷を牛耳り、不比等の子どもたちはそれぞれ公卿や天皇のキサキとなりました。有名な光明皇后も本名は藤原安宿媛といい不比等の娘です。平安時代には更に藤原氏は栄華を極め、政治は藤原氏が独占するようになっていきます。 ところで藤原氏二代目の不比等は鎌足の次男。つまり兄がいたのです。それは『尊卑分脈』で俗名を藤原真人として伝えられている人物。「俗名」というのは不比等の兄は出家した僧侶であったからです。法名を定恵(定慧・貞慧とも書く)と言いました。 貞慧、性聡明にして学を好む。大臣(=鎌足のこと)、異しむ。 (『藤氏家伝』貞慧伝) 和尚、其の性、聡明絶倫。故に小字を真人と曰ふ。幼稚の時、父に随ひて大く内外典籍を読む。一つ聞けば忘れること无し。 (『多武峯略記』第十一住侶、所引『旧記』) 定恵は上に書かれるように幼いころから優秀であったようです。「聡明絶倫」というのは、スゴ過ぎる表現な気もしますが、、、(^^; 俗名の「真人」は、儒教に於いて「まことの道をきわめ、完全な道徳を身につけた人、完全無欠の人格をもった人」という意味ですが、定恵はその優秀さ故に真人と名付けられたと『多武峯略記』は伝えています。その優秀さに父・鎌足は期待を込めて定恵を出家させたのです。 仍りて膝下の恩を割きて、遥かに席上の珍を求む。 (『藤氏家伝』貞慧伝) 沙門慧隠に投じて出家さす。 (『元亨釈書』第9巻) 『藤氏家伝』の文章の「膝下の恩」は親子の情愛のこと、「席上の珍」とは教養知識の婉曲な表現です。親子の情を捨て出家させたことを言います。出家の時、定恵の師となった慧隠は隋と唐にあわせて23年間留学していた碩学の僧侶で、大化改新で国博士となった旻と並んで、当時の日本における仏教の権威であったといいます。そんな人物を師に選んだ辺りに鎌足の定恵へ対する期待が感じられます。 その後、定恵は白雉4年(653)に11歳で遣唐使と共に唐の都・長安へ渡りました。 大唐に発し遣はす大使小山上吉士長丹、副使小乙上吉士駒 駒の更の名は絲 、学問僧道厳・道通・道光・恵施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聡・道昭・定恵 定恵は内大臣の長子也 ・安達 安達は中臣渠毎連の子 ・道観 道観は春日粟田臣百済の子 、学生巨勢臣薬 薬は豊足臣の子 ・氷連老人 老人は真玉の子。或る本、学問僧知弁・義徳、学生坂合部連磐積を以て増へたり あはせて一百廿一人、倶に一船に乗る。室原首御田を以て送使と為す。… (『日本書紀』孝徳紀、白雉4年5月12日条) 故に白鳳五年歳次甲寅(『藤氏家伝』の白鳳は『日本書紀』の白雉と一致する、ただしここの五年は四年の誤り)を以て、聘唐使に随ひて長安に到り、懐徳坊の慧日道場に住む。神泰法師を和上と作すに依る。則ち唐主の永徽四年に、時に年十有一歳なり。 (『藤氏家伝』貞慧伝) 長安では定恵は恵日寺の神泰に弟子入りして勉強しました。この神泰は、玄奘(いわゆる三蔵法師)が西域から持ち帰ってきたサンスクリット語の経典の数々を漢訳したときに、唐の太宗皇帝の命で玄奘の元に従った僧の一人であったそうです。ちょうど定恵が入唐したころは玄奘の翻訳作業が行われている時代だったのです。それに参加している神泰の弟子となった定恵は、現在進行形で発展する唐の仏教の最新の成果を学んでいたのでしょう。 始めて聖の道を鑚ちて、昼夜怠らず、師に従ひて遊学すること、十有余年。既に内経に通じ、また外典を解す。文章は観るべく、稾隷は法るべし。 (『藤氏家伝』貞慧伝) 日本に於ける慧隠にしろ唐に於ける神泰にしろ、定恵は一流の僧を師として勉学に励み、その在唐は12年間に及びました。 学問僧恵妙、唐に於いて死す。知聡、海に於いて死す。智国、海に於いて死す。智宗、庚寅の年を以て新羅の船に付きて帰る。覚勝、唐に於いて死す。義通、海に於いて死す。定恵、乙丑の年を以て劉徳高らの船に乗りて帰る。妙位・法勝、学生氷連老人・高黄金、あはせて十二人、別に倭種韓智興・趙元宝、今年、使人と共に帰る。 (『日本書紀』孝徳紀、白雉5年2月条注、伊吉博得言) 定恵は、唐から日本へ使わされた使いである劉徳高の船に乗って帰朝しました。ここで「乙丑の年」というのは、 唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高らを遣はす。 (『日本書紀』天智紀、天智4年9月23日条) という記述があるため天智4年(665)にあたります。この時、百済の地を通って帰朝したようですが、そこでまた定恵の天才ぶりを示すエピソードが伝わっています。 其の百斉に在りし日に詩一韻を誦む。其の辞に曰ふ、「帝郷は千里隔たり、辺城は四望秋なり」と。此の句警絶にして、当時の才人、末を続くことを得ず。 (『藤氏家伝』貞慧伝) 漢詩の「絶句」と呼ばれる形式は四句でひとつの詩を成します。このエピソードで定恵は最初の二句だけを詠み、誰かがその後を続ける手筈だったのでしょうが、定恵の句が素晴らしすぎて誰も続けることができなかったというのです。 しかし、帰朝した定恵を待っていたのは死でした。 百斉の士人、窃かに其の能を妬みて毒す。則ち其の年の十二月廿三日を以て、大原の第に終る。春秋廿三。道俗涕を揮ひ、朝野心を傷む。 (『藤氏家伝』貞慧伝) 9月に帰ってきたわけですから、日本帰国後たった3ヶ月での死でした。鎌足が将来の活躍を見込んで一流の師をつけ学ばせ、唐にまで送り込んだ定恵でしたが、その父に4年先立って死んでしまったのです。留学中に生まれた弟・不比等はまだ7歳でした。 ところで、これは『日本書紀』と『藤氏家伝』によって分かる定恵の経歴ですが、定恵のことを記した書物の中には、これらと異なったことを記すものは少なくありません。例えば、 調露元年、百済使に伴はれて至る。白鳳七年九月也。 (『元亨釈書』第9巻) のように、帰朝の年が違う、なんてのは序の口です。衣冠束帯で中大兄皇子が蘇我入鹿を斬り殺してる図で有名な『多武峯縁起絵巻』を収蔵している談山神社は、定恵が父・鎌足の菩提を弔うために建てたとされる「妙楽寺」という寺を元としていると伝えていますが、『藤氏家伝』に従うと鎌足の菩提寺を建てようにも定恵の方が先に死んでいるわけだったりしまして(笑) そのために、ゾンビが寺を建てた、ということになってしまいかねません。 また出生についても謎があります。母親がはっきりしないのもあるのですが、実は父親もはっかりしていません(笑) それは 定恵和尚は中臣連の一男、実、天萬豊日天皇(孝徳)の皇子也。 (『多武峯縁起』) なんて記述があるからです(^^; こうやって見て行くとナゾだらけな定恵。私の足りない頭ではこんがらがって仕方がありませんが、それでも少しずつ調べて行こうと思います。 (written on 2001/07/31) |
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