唐より帰国 三ヵ月後に没


 定恵は12年間唐で学び、そして天智4年(643)の9月に唐使・劉徳高の船に同乗して帰朝しました。

 定恵、乙丑の年を以て劉徳高らの船に乗りて帰る。
(『日本書紀』孝徳紀、白雉5年2月条注、伊吉博得言)

 唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高らを遣はす。
(『日本書紀』天智紀、天智4年9月23日条)

 帰ってきた定恵を迎えた父・鎌足は、当然、定恵の学んできた学識に期待をしていたことでしょう。定恵は出家し僧となっていましたが、当時の仏教は宗教というよりも先進知識としての色の濃いものでした。宗教だとしても、個人の悟りを開くものではなく、国家を守るものだと考えられていましたし、僧尼のことはすべて僧尼令に定められおり、国家公務員的な性格を持っていました。大化改新の際に国博士に任じられた旻や大津皇子に謀反を勧めたとされる行心のように、政治顧問的な性格を持つ僧は決して珍しくなかったのです。

 しかし、鎌足の期待に反して、帰国した定恵を待っていた運命は死でした。

 白鳳十六年歳次乙丑(天智4年)秋九月を以て、百斉を経て京師に来る。其の百斉に在りし日に詩一韻を誦む。其の辞に曰ふ、「帝郷は千里隔たり、辺城は四望秋なり」と。此の句警絶にして、当時の才人、末を続くことを得ず。百斉の士人、窃かに其の能を妬みて毒す。則ち其の年の十二月廿三日を以て、大原の第に終る。春秋廿三。道俗涕を揮ひ、朝野心を傷む。
(『藤氏家伝』貞慧伝)

 帰国が『日本書紀』によると9月23日ですから、12月23日に没した定恵は帰国後たった3ヶ月しかいなかったことになります。「大原の第」は現在の奈良県高市郡明日香村小原で、

 推古天皇廿二年 甲戌 八月十五日、(中臣鎌足)大和国高市郡大原の藤原の第で生る。
(『多武峯縁起』)

と、鎌足生誕の伝説のある地であり、また

 (天武)天皇の、藤原夫人(五百重娘)に賜ひし御歌一首。
わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくはのち

(『万葉集』巻第2)

と、天武天皇の時代になっても、鎌足の娘で天武天皇の夫人になった藤原五百重娘が住んでいたことが分かるので、藤原氏が古くから所有する邸のあった土地といえるでしょう。

 『藤氏家伝』によると、定恵は旧百済の地で詠んだ漢詩の才能を妬まれて、「百斉の士人」に毒殺されたとあります。この「毒」の字には「にくむ」の意味もあるので、百済人に憎まれたという読み方もできます。

 日本と百済は長い間に渡って友好関係を持ち、ほとんど同盟に近い関係でした。そのために百済滅亡の際、日本は大軍を朝鮮半島にまで送り、天智2年(663)の白村江の戦いへ突入するのですが、その大敗ののち、日本は外交姿勢を転換させます。天智4年(665)、6年(667)、8年(669)と続けて遣唐使を派遣します。これは実質的な唐への降伏であり、唐への接近でした。天智天皇の長男・大友皇子は『懐風藻』に漢詩を残す詩人ですが、これも唐への文化的迎合の性格を持ち合わせていたことでしょう。

 こういった日本の姿勢は、本国滅亡後多く亡命してきていた百済人たちの目には、裏切りとして映ったことでしょう。その最初の遣唐使派遣の直前、唐使に伴われて帰国した、すっかり唐風に馴染んだ政府首脳の息子・定恵。その彼がどのような外交政策を献言するか、多分に唐よりの提言になるであろうことは予想されます。そのため彼は憎まれ、または殺されたのでしょうか。

 ともかく、定恵の帰国後3ヶ月の死というのが、不自然なことだけは確言できると思います。

(written on 2002/02/19)


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