定恵誕生


 定恵の生年は『藤氏家伝』貞慧伝に記されている没年から逆算すると、皇極2年(643)となります。まあ、これについて『多武峯縁起』など異伝を記しているものもあるので、また考えたいと思うのですが。

 ここでは、定恵の出自について記述してあるものを挙げて、まとめてみたいと思います。

 定恵は内大臣の長子也。
(『日本書紀』孝徳紀、白雉4年5月12日条注)

 二子貞慧(=定恵)・史(=不比等)有り。
(『藤氏家伝』鎌足伝)

 定恵。多武峯本願。大和尚。十一歳入唐。俗名真人。母不比等に同じ。
(『尊卑分脈』 ※ちなみに不比等の箇所に「母車持国子君之女 与志古娘」とある)

と、これらの史料だけでまとめるなら、単純に父・中臣鎌足、母・車持君与志古娘と考えればいいのですが、下のような記述もあるので困るんですね、定恵っていう人物は。

 和尚(=定恵)、大織冠内大臣一男。母・車持国子の娘、車持夫人なり。件の夫人、元是れ孝徳天皇の寵妃なり。天皇深く大臣の聖智賢意を知り、妃を賜ひて夫人と為す。時に夫人、孕むこと已に六箇月。詔して曰ふ、『生まれる子、若し男ならば臣の子と為せ。若し女なれば朕の子と為す』と。堅く守りて四箇月を送る。生まれし子男なり。故に大臣の子と為す。
(『多武峯略記』第十一住侶、所引『旧記』)

 この記述を信じると表向きは父・鎌足なんですが、本当は孝徳天皇の子ということになります。これを思いっきり簡単に書いたのが

 定恵和尚は中臣連の一男、実、天萬豊日天皇(孝徳)の皇子也。
(『多武峯縁起』)

という記述となります。確かに『日本書紀』にも鎌足と即位前の孝徳=軽皇子が親しく付き合い、寵妃を下げ渡した(個人的にはあんまし好きではない…当時と感覚が違うんでしょうけど)らしい記述もあるのはあるんですが

 軽皇子、深く中臣鎌子連(後の鎌足)の意気の高く逸れて容止犯し難きことを識りて、乃ち寵妃阿倍氏を使ひたまひて、別殿を浄め掃ひて、新しき蓐を高く鋪きて、具に給がずということ靡からしむ。敬重特異。
(『日本書紀』皇極紀、皇極3年正月朔条)

と、こちらに書かれているのは「阿倍氏」なんですよね〜。「車持氏」ではなく。そんなわけでさっぱり訳の分からない世界に入りこんでしまいました(汗)

 分からないままでも困るので、少し定恵皇胤説から離れて、ほかの皇胤説を考えてみることにします。ちょうど定恵の弟である藤原不比等にも皇胤説が存在するので、それを見てみましょう。もっとも、こちらは孝徳ではなくて天智天皇の胤という話なんですが。私が見かけたのは歴史物語の『大鏡』です。

 この鎌足の大臣を、この天智天皇いとかしこくときめかし思して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめたまひつ。その女御ただにもあらず、孕みたまひにければ、帝の思し召しのたまひけるやう、この女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子にせむと思して、かの大臣に仰せられけるやう、「男ならば大臣の子せよ。女ならばわが子にせむ」と契らしめたまへりけるに、この御子、男にて生まれたまへりければ、内大臣の子としたまふ。…(中略)…天智天皇の御子の孕まれたまへりし、右大臣までなりたまひて、藤原不比等の大臣とておはしけり。
(『大鏡』藤原氏物語)

 これを読んでいると分かるんですがこの不比等皇胤説は定恵皇胤説とそっくりなんですよね(汗) 特に「男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子にせむ」のあたり。漢文とかな文学の違いなどはありますが、雰囲気が激似です。

 時代的にいうと、不比等皇胤説を載せる『大鏡』は平安時代後期成立、定恵皇胤説を載せる『多武峯略記』は鎌倉時代成立ですから、定恵皇胤説は不比等皇胤説の影響を受けて(というか、ダイレクトに言えばパクって)成立したものと考えるのが良さそうです。

 ちなみに不比等皇胤説の方も間違いっぽいです(笑) 上に引用した文章の載っている辺りの『大鏡』の文章には間違いが多過ぎますから(例・大友皇子が即位して天武天皇になったとか) 『大鏡』は史実的要素が多いのでいろいろと参考にできるものではありますが、部分的には全く信用がおけないようです(もっとも『日本書紀』だって、何だって同じことは言えますが)

 いろいろ話が飛んでしまいましたが、私は上に書いたようなことから定恵皇胤説を除き、『日本書紀』『藤氏家伝』『尊卑分脈』などから、定恵(と同母弟の不比等)の父は中臣鎌足、母は車持君与志古娘ということにしたい、と思います。

追加。

 ところで話は飛びますが、定恵皇胤説のところで登場した孝徳天皇の「寵妃阿倍氏」といえば阿倍小足媛を思い浮かべる私。あの有名な有間皇子の母妃サマです。

 二妃を立つ。元妃、阿倍倉梯麻呂大臣の女、小足媛と曰ふ。有間皇子を生む。
(『日本書紀』孝徳紀、大化元年7月2日条)

 その小足媛が鎌足との間に定恵を……と考えると(汗) 『天上の虹』では清浄な感じだった有間の周辺ですが、ドロドロ腐ってきますね(汗) やっぱこの視点から言っても、定恵皇胤説はナシってことで(笑) 単に気持ち的な問題なんですけどね(笑)

(written on 2002/02/11)


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