経政(つねまさ) 「能楽の淵」トップページへ


『平家物語絵巻』経正都落
『平家物語絵巻』経正都落

■あらすじ

 仁和寺門跡・守覚法親王に仕える僧都行慶は、法親王の命で、西海の合戦で討死した平経正の霊を慰めるために、管弦講を催し、青山という銘の琵琶を手向けて回向する。経正は幼少のころより先代門跡の覚性法親王に仕えており、琵琶の名手として知られ、青山は一時、経正に下賜されていたものだからである。法事を行っていると、弔いに感謝した経正の霊が現れ、懐かしげに琵琶を弾き、「面白の夜遊や。あら面白乃夜遊や」と舞を舞う。心楽しんでいる経正に、突然修羅の苦しみが襲ってくる([カケリ])。修羅道の苦験を受ける我が身を見られることを恥じ、灯火を嵐とともに吹き消して、経正の霊は消え失せる。
→能『経政』の詞章はこちら

■人物について

平経正(たいらのつねまさ)
 能の名前では『経政』が一般的ですが、人物名は「経正」です。平清盛の甥で、能『敦盛』に登場する平敦盛の兄。官位は皇太后宮亮正四位下。一ノ谷の合戦で戦死しました。『経政』に描かれるように、琵琶を愛する貴公子で和歌もよく詠んだそうです。同時に武勇にも優れていたらしく、源氏追討使に遣わされたり、強訴する僧兵に対して御所警備の任についていたこともあります。
 仁和寺との繋がりは強く、経正の死後も、その妻と子が仁和寺に匿われていたといいます。(長門本『平家物語』)

■ゆげひ的雑感

 能『経政』の主人公・平経正は元服するまでの間、仁和寺門跡の覚性法親王に仕え、病気の時以外は少しも離れることもなく伺候したといいます。その寵愛により、仁和寺に伝わる琵琶「青山」を賜ってました。青山は中国伝来の琵琶で、玄象と並び称される名器でした。後、木曾義仲が攻め上ってくる時、経正は仁和寺に参り、

 さしもの我朝の重宝を田舎の塵になさんことの口惜しう候へば、参らせ置き候
(『平家物語』経正都落)

と言って、覚性の後、仁和寺を継いだ守覚法親王に青山を返上した後、西国へと落ちて行ったのでした(上の絵はそのシーン)。

 経正はそれより先、竹生島で、「上玄」「石上」の二曲を奉納したことが『平家物語』に見えます。「上玄」「石上」は唐の琵琶博士・廉承武の亡霊から村上天皇が伝授を受けたという逸話を持つ秘曲でした。また音楽書『残夜抄』にも琵琶の名手として経正の名があげられています。

 しかし、時代は経正を管弦の名手としてではなく、平家の武将として生きることを強いました。そして寿永3年(1184)の2月、一の谷合戦において源氏の武者・河越小太郎に打たれてしまいます。

 修理大夫経盛の嫡子、皇后宮亮経正は、助け船に乗らんと汀の方へ落ち給ひけるが、河越小太郎重房が手に取り篭められて討たれ給ひぬ。
(『平家物語』知章最期)

 その後、守覚法親王は、僧都行慶に命じて、経正の霊を弔うため仏前に青山の琵琶を置いて管弦講を行わせます。これが能『経政』で語られるストーリーです。

 ところで経正の師であり、経正に琵琶を与えた覚性法親王には、稚児を男色の相手としていた説話が『古今著聞集』に残っています。以下、『古今著聞集』に載っている話を紹介します。

 覚性には、千手という寵童がいて愛おしく思っていましたが、そこに参川という童がやってきます。すると覚性は参川をも寵愛するようになります。千手は自分への寵愛が、参川に向けられる寵愛より少し劣っていることを感じ取って、御室御所から退出してしまったのでした。

 ある日、仁和寺で酒宴が行われたおり、いろいろな遊び(芸能)が行われましたが、覚性の弟子の守覚法親王が「なんで千手がいないのですか。連れてきて笛を吹かせ今様を謡わせたら面白いのに」と言うので、千手が呼び出されました。しかし、千手は「このところ病気なので」といって参上しようとしません。それでも使いが何度も来るので、仕方なく参上します。

 千手は煌びやかな装束をつけたけれど、それとは裏腹に物思いに更ける様子でした。酒宴の人々が今様を謡うように勧めるので、「過去無量の諸仏にも 捨てられたるをばいかがせん」と謡います。その様子があまりに哀れだったので、聞いている人々は皆涙を流したのでした。酒宴の興もさめてしまいます。覚性は堪えられず、千手を抱いて寝所に入いったのでした。

 夜が明け、覚性が寝所を見渡すと、紅の薄様の紙を引き破ったものに歌が記してありました。それは参川が書いたもの。参川は、千手に心を戻した覚性を恨んで、歌を残し姿を消したのでした。後に参川は、高野山に上って僧侶になったともいう…。

 有名な『平家物語』の白拍子・祇王と仏御前の説話の男色ヴァージョンといった話ものですね。この話に見えるように、覚性は稚児男色を行っていたわけで、当然幼いころから仕えた経正も覚性と男色関係にあったと見ても良いようです。

 平経正の生まれた年は分かっていませんが、仁安2年(1167)に淡路守の官職を得ていますから、それが元服した13歳だと考えると、没年の寿永3年(1184)には30歳となります。さすがに少年とはいえない年齢ですが、しかし、能『経政』では「十六」もしくは「今若」といった年若い少年を表す面をつけて演技をすることになっています。

 琵琶の音楽に妄執を持ち、そして修羅道に落ちた姿を見られることを恥じるという内向的な性格も、少年らしさの演出です。最後の方にある「燭を背けては。共に憐れむ深夜の月」という謡は実は白楽天の漢詩の一部で、「花を踏んでは。同じく惜しむ少年の春」と続きます。やはり「少年」を暗示させる言葉なのです。ワキ行慶僧都は、覚性にダブらせて構成されているといえないでしょうか。

 経正は覚性との男色を通じた強いつながりによって、国宝級の琵琶である青山を与えられ、また平家が滅びた後、経正の妻と子が仁和寺に匿われていたのも、覚性とのつながりゆえでした。

 御室仁和寺における稚児趣味は覚性に限られることではなく、覚性の師であった覚法法親王も狛則康という稚児を愛した記録が残っていますし、時代は少し下りますが、吉田兼好の『徒然草』にも「これも仁和寺の法師」という書き出しで、可愛い童をどうにか連れ出して遊ぼうとした法師たちのことが記されています。

 中世寺院に深く根を下ろしていた男色。表立ってではありませんが、「経政」にはそういう面も描かれているのです。なーんてマジメな口調で文章書いてますけど、結局、こーゆーアヤシイ話の大好きなんで書いたまで(笑)

(2003/01/16)

DATA
観世・金春・宝生・金剛・喜多
(観世・金剛では『経正』)

作者:世阿弥か?
分類:二番目物、公達物
季節:秋九月
場所:京都洛西仁和寺
原典:『平家物語』経正都落
太鼓:なし

登場人物
シテ:平経正の霊
ワキ:僧都行慶

関連史跡
仁和寺
仁和寺

オススメ本
平家物語の女たち-大力・尼・白拍子 平家物語の女たち―大力・尼・白拍子
細川涼一
 巴、静、小督、建礼門院など能にも関わりのある女性たちについて述べた本。最終章では平経正と男色について書かれている。

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