皇后と大后


 日本の最古の正史である『日本書記』には、天皇の正妃について

 天皇、橿原宮に於いて帝位に即く。是歳を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后と為す。
(『日本書紀』神武紀、神武元年正月1日条)

とあるのを初めとして、例外として「仲哀紀」または「天智紀」に数例の「大后」の語の使用が見えますが、ほとんど「皇后」の語が使用されています。

 これに対して『古事記』においては、逆に数例の「皇后」の語の使用があるもの、天皇の正妃を指す語として

 神倭伊波礼毘古命然れども更に大后と為す美人を求む時
(『古事記』神武記)

を初めとして、主に「大后」の語が使われています。

 この「大后」の語は古い史料に多く見られ、推古天皇の時代のものだとされる『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に

 …法興元卅一年歳次辛巳十二月、鬼前大后(=間人穴穂部皇女)崩ず

とあって、また同時代のものだといわれる『中宮寺天寿国繍帳』には

 多至波菜等已比乃弥己等(用明天皇)、庶妹、名を孔部間人公主(穴穂部間人皇女)、娶りて大后と為す……尾治大王之女、名を多至波奈大女郎、娶りてとなす

とあって、「大后」と「后」を使い分けているのが分かります。また、多少時代は下りますが、『万葉集』にも

 額田王の歌
熟田津に船乗せむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎいでな

 右、山上憶良大夫の類従歌林をしらべて曰く、「飛鳥岡本宮御宇天皇
(=舒明)元年己丑の九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇と大后、伊予の湯宮に幸す。後岡本宮馭宇天皇(=斉明)の七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西に征き、始めて海路に就き、庚戌、御船伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。天皇、昔日より猶在る物を御覧し、当時忽ち感愛の情を起す。所を以て因り歌詠を製りて哀傷を為す也」 即ち、此の歌は天皇の御製なり。
(『万葉集』巻第一)

と「大后」と記し、またその大后が「後岡本宮馭宇天皇」、つまり斉明天皇と同一人物であることを示しているので、この「大后」が『日本書紀』の「皇后」と同じ人物を指していることが分かります。ここから、少なくとも推古天皇の時代から奈良時代後期までの時代には、天皇の正妃のことを一般的には「大后」と呼んでいたであろうことが考えられます。

 この「大后」は「オホキサキ」と訓読みして、「大臣」「大連」などの「オホ」と同じように、複数存在する天皇の「キサキ」の中から特に一人を尊んでいう言い方でしょう。これは本居宣長の『古事記伝』のころから言われていることですが。

 それに対して「皇后」の語は、中国の制度に則って、日本でも制定された律令によって「大后」の文章上の正式名称として定められたものであると思われます。『大宝令』に「皇后」「皇太后」「太皇太后」などの称号があったことも確認されています。

 『日本書紀』は『大宝令』施行下の養老二年(720)に編纂が終了していることから、『大宝令』に倣って「オホキサキ」を「皇后」という語に統一して編纂されたのでしょう。しかし、当時は「皇后」の語はそれほど一般的ではなかったらしく、『日本書紀』と同世代の史料でも、「皇后」の語を使っているものはほとんどありません。『日本書紀』の続きとして編纂された『続日本紀』においても、文武天皇が皇后を立てず、その後元明天皇・元正天皇と女帝が続いたこともあって、聖武天皇の光明皇后に至って初めて「皇后」の語が登場します。

 ところで「キサキ」の中から、特に一人を「オホキサキ」と呼ぶようになったのはいつごろからでしょうか。先に引用した『中宮寺天寿国繍帳』においては、「大后」と「后」の語が区別して用いられているみたいですので、推古天皇の時代にはどうやら既に「キサキ」と「オホキサキ」の別が存在していたようです。

 『日本書紀』によると、推古は敏達天皇の「皇后」であり、最初の女帝です。この後、皇極・斉明・持統・元明などの女帝が次々と即位しますが、これらの女帝はみな、先帝の「皇后」でした(元明は草壁皇子の妃ですが、草壁は皇太子でしたので天皇に准ずると考えていいでしょう)

 また、天智天皇崩御の直前、譲位を持ちかけられた大海人皇子が

 天皇(=天智)、東宮(=大海人)に勅して鴻業を授く。乃ち、辭譲して曰く、「臣、不幸にして、元より病多く有り。何に能く社稷を保たむ。陛下、天下を挙げて皇后(=天智皇后、倭姫王)に附さんことを願ふ。仍りて、大友皇子を立てて宜しく儲君と為すべし。
(『日本書紀』天武紀、即位前紀)

と、言っていることから、天智・天武両天皇の時代にはすでに、天皇の崩御後は皇后が即位するという慣例が存在したことが伺えます。こういったことから推古以降の「皇后」の地位が、皇位継承権を持つ極めて重要なものであることが伺えるのです。

 このように「皇后」が重要な意味を持つようになったがゆえに、他のキサキとの厳密な別がつけられるようになったのではないでしょうか。『日本書紀』には敏達天皇の崩後に、

 穴穂部皇子、炊屋姫皇后を奸さんと欲し、自ら強ひて殯宮に入る。
(『日本書紀』用明紀、元年五月条)

とあって、残った皇后(後の推古天皇)に異母兄弟の穴穂部皇子が近付こうとしたという話があります。この穴穂部はその前の巻の最後、敏達の殯宮での記事に

 穴穂部皇子、天下を取らんと欲す。憤発して称して曰く、「何故死にし王の庭に事へ、生きし王の所に事へずなり」
(『日本書紀』敏達紀、十四年八月己亥条)

とあって、皇位を狙っていた人物でした。ですから、上の「皇后を奸さんと欲し」たという記事も、「皇后」の地位の重要性の故だと考えられます。穴穂部は皇位へ近づくために、皇后を力づくでも手に入れようとしたのです。

 これらの『日本書紀』の記事、そしてほぼ同時代の『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』『中宮寺天寿国繍帳』などから、推古朝の直前には「キサキ」と「オオキサキ」の別が存在したのではないだろうか、と思うのです。

(written on 2002/01/09)


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