奈良時代の女官


 「古代の女性の名前」といえば、どんな名前を思い浮かべるでしょうか。まず日本史最初に登場する女性の名前は、邪馬台国の女王・卑弥呼でしょう。そしてその跡を継いだという壱与。

 そしてその次が最初の女帝・推古天皇だろうと思いますが、この「推古」は奈良時代に入ってから付けられた「漢風諡号」と呼ばれる名で、本名は額田部皇女と言いました。

 天智・天武の時代には、『万葉集』の歌人として有名な額田王がいます。

 少し時代を下って奈良時代に入ると、元明天皇元正天皇孝謙天皇(重祚して称徳天皇)といった女帝たちが登場します。といっても、これらも「推古」と同じく漢風諡号で、元明の本名は阿閉皇女、元正は氷高内親王、孝謙は阿部内親王といいました。彼女たちのような皇族女性の名前は、どうやら養育に当たった氏族名やその氏族の根拠地名で呼ばれたみたいで、一般の命名法とは異なったみたいです。

 では、臣下の女性の名前となると、どんなのがあるのでしょう。私は、歴史書というのは男性視点で書かれたものであり女性名などほとんど書かれていないものだ、と思っていたのですが、意外にも奈良時代の史書である『続日本紀』を読んでいると、女性の名前がそれなりに記されていたのです。

 それは、当時の基本法典である『律令』に女性官人が定められているため、女性でも叙位が行われていたからでした。『続日本紀』は基本的に五位以上の官人の叙位を記しますが、そこに男女の区別はありません。例に神護景雲二年十月の女叙位記事から人名を引いてみます。

无位 文屋布登吉[ふみやのふとき] → 従五位下
正四位上   吉備由利[きびのゆり] → 従三位
従五位下 平群真継[へぐりのまつぐ] → 従五位上
无位 藤原浄子[ふじわらのきよこ] → 従五位下
従三位 藤原百能[ふじわらのももの] → 正三位
正四位下 藤原家子[ふじわらのやかこ] → 正四位上
従四位上 大野仲智[おおののなかち] → 正四位下
従五位下 久米若女[くめのわかめ] → 従五位上
无位 多治比古奈弥[たじひのこなみ] → 従五位下
従五位上 桑田弟虫売[くわたのおとむしめ]  → 正五位下
従六位下 朝妻綿売[あさづまのわため] → 従五位下


 見てみると、「若女」「弟虫売」「綿売」(「女」も「売」も、「め」と読むので、たぶん女性を表すという意味は同じでしょう)といった「○○女」の系統や、「浄子」「家子」といった「○○子」の系統の名前など、まとめることのできる名前がある一方、「布登吉」「真継」「百能」「仲智」「古奈弥」といった、まとめられない名前もあるようです。ま、この当時の男性の名前に「○○麻呂」が多いとはいえ、ほかの系統の名前も随分多いのと同じなのでしょう。

 その中で私が少し興味を持ったのが、吉備由利という女性でした。興味を持った理由は大したことでなくて、単に「由利」という名前が現在でも通じそうな感じがした、というそれだけだったりします(笑)

 ま、それをいうならば、光明皇后の母である橘三千代も現代でも通じそうな上、息子は左大臣、娘は皇后ということもあって、関連記事もいろいろ多く調べやすいのではあるのですが、ここは敢えて吉備由利のほうを調べました。

 ……正五位上吉備朝臣由利……に勲四等を授く。
(『続日本紀』天平神護元年正月己亥条)

 吉備由利は称徳天皇の時代に活躍した女性ですが、彼女が『続日本紀』に登場する最初の記事は、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の平定後の叙勲記事です。彼女の系譜は詳しくは分かっていませんが、吉備真備の妹か娘だろうと考えられています。吉備真備は、称徳天皇が皇太子であったころの師(東宮学士)で、恵美押勝の乱に当たって称徳に呼び出され、称徳軍の参謀として

 (=押勝)の必ず走らむことを計りて、兵を分ちてこれを遮る。
(『続日本紀』宝亀六年十月壬戌条吉備真備薨伝)

という働きをし、後に右大臣まで上り詰めた人物です。由利はその真備の親族として称徳に信任され重用されたのでしょう。その信任ぶりが強く現れるのは、称徳天皇崩御直前の

 天皇、由義宮に幸し、便ち聖躬不予を覚ゆ。是れに於ひて即ち平城に還る。此れより百余日を積むまで事を親らすることあらず。群臣嘗て謁見すること得る者无し。典蔵従三位吉備朝臣由利、臥内に出入りして奏す事を伝ふ。
(『続日本紀』宝亀元年八月条)

の記事です。危篤状態で誰も入ることの許されない臥内に唯一入れた由利。このことは、真備にとって、称徳崩後の政権を有利に動かすための重要なカギになったのかもしれません。

 『日本紀略』に引用されている『百川伝』には、称徳の次の天皇を選ぶ上で、吉備真備が一度は指導的立場を取ったことが記されています。

 百川伝、云ふ。……皇帝(称徳天皇)、遂に八月四日に崩ず。天皇、平生未だ皇太子を立てず。此れに至り、右大臣真備ら論じて曰ふ、「御史大夫(=大納言のこと)従二位文室浄三真人、是れ長親王の子也。立てて皇太子と為す」と。(藤原)百川、左大臣(=藤原永手)・内大臣(=藤原良継)と論じて云ふ、「浄三真人、子十三人有り。後世を如何とす」と。真備らみなこれを聴かず。浄三真人を冊して皇太子と為す。
(『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条所引『百川伝』)

 まあ、この当時、藤原百川は「雄田麻呂」と名乗っていましたし、その兄である良継も「宿奈麻呂」と名乗っており、内大臣ではなく参議兵部卿でした。しかし、後の名前が記されているのですから、官職も、後に良継が内大臣に任じられたので、「内大臣」と書いたのでしょう。

 ともかく、この『百川伝』の記事によると、吉備真備は文室浄三を、天武天皇の皇子・長親王の子、つまり天武の皇孫であるということから皇太子に立てようとしたのです。称徳の後継ぎとして今までに立てられたのが、道祖王にしろ淳仁天皇にしろ、いずれも天武の皇孫であったことの続きでだろうと思います。

 当然、この浄三立太子には反対も出ました。特に藤原氏です。「浄三卿には、子が十三人もおられる。次の皇太子はどうされるのだ」と。しかし、真備はこれを聞きませんでした。その理由は『百川伝』には記されていませんが、ここで真備は「浄三卿立太子は、故帝の遺勅である」とでも宣言したかもしれません。

 もちろん、推測以上の何物でもありません。しかし、称徳病臥以降、女帝の近くに侍ることを許されたのは、真備の親族である吉備由利、ただ一人だったのです。当然、最後の綸言を聞いた可能性のあるのは由利以外にいないのでした。真備はこれを最大限に利用したのです。

「もし疑いがあるならば、由利を此処に召されるがよかろう」

 真備はこういって、反論する藤原氏たちに対して凄んだかもしれません。もちろん、その遺言が本当かどうかを確かめる術は、藤原氏側にはありません。偽りであっても、由利は当然、真備と示し合わせて答えるに決まっているからです。従三位の高位を与えられ、政界に首を突っ込んでいる由利にとって、それぐらいは簡単にやってしまえるに違いありません。

 しかし、真備が得意でいられたのもここまででした。

 浄三にわかに辞す。よりて更に其の弟、参議従二位文室大市真人を冊して皇太子と為す。亦これ辞す所となる。百川、永手・良継と策を定め、偽の宣命語を作り、宣命使を庭に立て、宣制さしむ。右大臣真備、舌を巻きて如何なし。百川、即ち諸仗に命じ、白壁王を冊して皇太子と為す。
(『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条所引『百川伝』)

 真備が推した文室浄三が辞退したのです。真備は慌てて浄三の弟である文室大市を立てましたが、再び辞退されました。真備は慌てたことでしょう。根回しが足りなかったのでしょうか。その隙をつくように、藤原氏は偽の宣命を用意します。

 左大臣従一位藤原朝臣永手、遺宣を受けて曰はく、「今詔りたまはく、事卒然に有るに依りて、諸臣等議りて、白壁王は諸王の中に年歯も長なり。また、先の帝の功も在る故に、太子と定めて、奏せるまにまに宣り給ふと勅りたまはくと宣る」と。
(『続日本紀』宝亀元年八月癸巳条)

 この偽「遺宣」を受けて、天智天皇の皇孫である白壁王が立太子、即位して光仁天皇となりました。藤原氏に敗れた吉備真備は、しばらく後、右大臣を辞して権力から身を引きます。その縁者である吉備由利もこの後、『続日本紀』に名前が登場する出ることもなく、ただ

 尚蔵従三位吉備朝臣由利、薨ず。
(『続日本紀』宝亀五年正月壬寅条)

と記されるのみでした。

 ところで、『万葉集』には奈良時代の女性と思われる名前として、大伴坂上郎女や、その娘である坂上大嬢、狭野弟上娘子といった名前が記されています。この「郎女」や「嬢」は「いらつめ」と訓み、「娘子」は「おとめ」と訓みますが、「いらつめ」や「おとめ」という言葉は、名前というよりは「女の人」という意味の普通名詞のように、私は思います。

 実際、『万葉集』には石川郎女という女性が、どうやら数人載っているようです。これも「石川郎女」が「石川氏の女性」という意味の普通名詞だからではでしょう。

(written on 2001/09/11)


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