女性と「穢れ」


 能楽師が『翁』という神事に取り掛かる前の精進潔斎である別火中には、奥さんであっても、女性と会ったり話したりすることは禁じられているそうです。その理由は、女性が「穢れ」であるから、だといいます。

 日本の古神道的生命観において、「清浄」とは心身(社会・自然を含むこともある)が健全な秩序を成している状態だといいます。逆に「穢れ」とは、流血や出産(昔は死産も多かったですし、産褥で母体が亡くなることもありますしね)といった生命の疲弊や、死といった状態のことだそうです。そして、神道祭祀で重視される「禊」や「祓」とは「穢れ」を洗い落として生命秩序を取り戻すことだったのです。「穢れ」がある状態から「禊」「祓」を通して、初めて「清浄」な状態となるのでした。

 そういえば記紀神話中、最も偉大だとされるアマテラス・ツキヨミ・スサノオの三神は、父であるイザナキが、死んだ妻・イザナミの住む黄泉国から逃げ帰ってきた後に、触れた死穢を「禊」いだときに生まれたとされています。これは、イザナミの死穢をきっかけに新たな生命の秩序を実現したことを示しているのだそうです。

 ここを以ちて伊邪那伎大神(イザナキノオオカミ)詔りたまはく、「吾はいなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。かれ、吾は御身の禊せむ」とのりたまひて、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
 (中略)
 ここに左の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は天照大御神(アマテラスオオミカミ)。次に右の御目を洗ひたまふ時なりし神の名は月読命(ツキヨミノミコト)。次に御鼻を洗ひたまふ時成りし神の名は、建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)
(『古事記』上)

 習俗的に死穢を「黒不浄」、血穢を「赤不浄」といいますが、女性の出産や生理も出血を伴うことから、赤不浄として穢れの内に入れられてきました。それは確かに「穢れ」であり、「忌む」ものであったのですが、同時に新たな生命誕生への神秘として「斎む」こともされるという、両義性を持っていたのです。

 古代の風俗では、女性が出産をする前には産屋を立て他と隔絶しましたが、これは「穢れ」として隔絶するという意味と同時に、神秘として「聖別」するという意味合いもありました。女性を「穢れ」としつつも、神の最も間近に仕える巫女が女性であった理由も、このあたりにあるのかもしれません。

 このように、日本古来の思想のもとでは、女性はたしかに「穢れ」の要素を持ってはいましたが、同時に「清浄」の要素を持つ両義的なものだったのです。しかし中世以降、両義性を持っていた女性の出産や生理が、一面的な「穢れ」とされ、さらに女性自体が「穢れ」とされていきました。

 その原因は一概にいうことはできませんが、男よりも女の方が救われ難いとする仏教が流入し、神仏習合が行われたからではないだろうか、というのが私の思っているところです。

(written on 2002/01/09)


トップゆげひ的歴史雑感>女性と「穢れ」
「世の中に昔語りのなかりせば―」
http://funabenkei.daa.jp/yononaka/