称徳天皇の改名癖


 称徳天皇の神護景雲3年5月の話です。大宰主神(大宰府の神祇担当官の長)である中臣習宜阿曽麻呂が宇佐八幡宮からの神託を都へと伝えました。

 道鏡をして皇位に即かしめ。天下太平。
(『続日本紀』神護景雲3年9月25日条)

 当時の称徳の寵臣(というか、恋人だったと言われる)法王・道鏡を天皇にすることを命ずる神託でした。称徳はそれを確認するために輔治能清麻呂(後の和気清麻呂)を勅使として宇佐八幡宮に遣わします。

 その結果は。周知のことではあると思いますが一応、『続日本紀』を引用しておきます。

 天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は早に掃い除くべし。
(『続日本紀』神護景雲3年9月25日条)

 「大宰主神より伝えられしは、確かに誠の神託でございました」との報告を期待していた称徳は怒り狂います。清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と名を貶められ大隈に流罪。清麻呂の姉であった尼・法均も称徳天皇とともに出家した側近でしたが還俗させられ、その本名・広虫を「狭虫(さむし)」と貶められて備後へ流罪となったのでした。

 これはわりと有名な事件だと思いますが、私が初めてこの事件の存在を知った小学生の頃、強い印象を残したのは、この清麻呂と広虫の改名でした。「清麻呂」が「穢麻呂」、「広虫」が「狭虫」です。対語なのですが、正直、まるで子どもの悪戯みたいな改名だと思ったのです(笑) その時の詔にはこうあります。

 また清麻呂らは奉侍れる奴と念してこそ姓も賜ひて治め給ひてしか、今は穢き奴として退け給ふに依りてなも、賜へりし姓は取りて別部と成し給ひて、其が名は穢麻呂と給ひ、法均が名も広虫売と還し給ふと詔りたまふ御命を、衆諸聞きたまへと宣る。
(『続日本紀』神護景雲3年9月25日条)

 清麻呂の当時の官位は従五位下近衛将監でした。決して高くはない官位ですが、元々吉備の豪族で「吉備藤野別」を名乗っていた清麻呂たち。それを称徳がわざわざ「輔治能」を賜姓したいたのです。

 従五位下吉備藤野和気真人清麻呂らに姓を輔治能真人と賜ふ。
(『続日本紀』神護景雲3年5月28日条)

 「輔治能」は「藤野」に対する単なる語呂合わせではありません。「能く輔け治める」という意味が込められた、称徳の厚い信任を表す姓なのです。それが自らの思惑に逆らった。称徳の怒りは頂点に達したことでしょう。それだけに称徳は「別部穢麻呂」という子どもじみた改名を命じたのです。

 しかし、『続日本紀』を見ていると、称徳(1度目の即位時は孝謙天皇)のこういう改名の例は他にもわりと多いようです。それらの例を表にしてみると

天平宝字元年7月(孝謙天皇時代)
黄文王
(きふみおう)
久奈多夫礼
(くなたぶれ)
道祖王
(ふなとおう)
麻度比
(まどひ)
賀茂角足
(かものつのたり)
乃呂志
(のろし)
神護景雲3年5月(称徳天皇時代)
不破内親王
(ふわのひめみこ)
厨真人厨女
(くりやのまひとくりやめ)
県犬養大宿禰姉女
(あがたいぬかいのおおすくねあねめ)
犬部姉女
(いぬべのあねめ)

 黄文王が改名された「くなたぶれ」は「くな」+「たぶれ」で、「くな」は「頑な」の「くな」。「たぶれ」は『日本書紀』斉明紀にある「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」の「たぶれ」と同じで狂っているという意味です。よって「くなたぶれ」は「頑狂」という意味になります。

 道祖王の「まどい」は「惑ひ」の意味、賀茂角足の「のろし」は「鈍し」愚鈍の意味です。

 「厨真人厨女」の「厨」は台所のこと、つまり「厨女」は台所で働く下女のこと。「犬部」は本姓「犬養」を貶めた言い方です。

 この中の傑作はなんと言っても「厨真人厨女」だろうと思います。真人は姓(かばね)ですが、天武天皇が定めた「八草の姓」の最高に位置する姓で、元々は儒教に於いて「まことの道をきわめ、完全な道徳を身につけた人、完全無欠の人格をもった人」という意味の言葉です。それが「台所のはしため」という意味の名前にくっついてます。この組み合わせはかなり珍妙です。

 ちなみに「厨真人厨女」こと不破内親王は、称徳を厭魅した(呪った)との罪状で名を貶められて京外退去となったたのですが、それと共に土佐に流罪になった息子・氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)も特に改名の記事はないものの、名を貶められている可能性があります。

 というのも、「しけし」には「穢れ」の意味があるからです。となると「志計志麻呂」という名前は、和気清麻呂が貶された「穢麻呂」と同じ意味の名前となります。『国史大辞典』には、こういった理由から「氷上志計志麻呂は、彼の兄弟と考えられていた氷上川継が貶められた名前である」という説が書かれています。

 それにしても称徳女帝という人は改名が好きだったんだろうな、と思いますね。「輔治能」の例も合わせて、このように改名記事が史書に多く記されていると、やっぱりそう思ってしまいます。

 称徳朝には、道鏡の「法王宮職」のことなど、称徳の従兄で孝謙・淳和朝の政治を主導していた藤原仲麻呂の影響やそれに対する対抗心がある、とよく指摘されていますが、思えば仲麻呂も役所や官位の名前を唐風に変更したりと、改名を好んでやっていました。これらの改名も仲麻呂のやったことへの影響や対抗心があるのでしょうか。

(written on 2001/11/22)


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