皇后と中宮


 皇后と中宮。よく同じような違うような、といいます。特に平安時代中期に藤原道長がやってのけた中宮彰子と皇后定子の二后並立に関して、「本来は同じ」といった解説もよく見ます。そんなわけで、中宮と皇后という語の整理をしてみました。

 まず、平安時代の法令解説書である『令義解』にはこうあります。

 中宮。謂ふ、皇后の宮なり、其れ太皇太后、皇太后の宮また自ら中宮なり。
(『令義解』職員令中務省中宮職条)

 つまり、中宮とは皇后の「宮」のことであり、また太皇太后と皇太后の「宮」ことも指すことがある、と書かれています。古代は人物をその人が居住する宮の名前で呼ぶんですね。皇太子を「東宮」、小一条に住んでる大臣なら「小一条大臣」とか。だから、中宮に住んでる人=「皇后」ということになるんですね。でも、『令義解』では太皇太后や皇太后の御所も中宮というと書いてありますから、中宮=皇太后も中宮=太皇太后もあり得ることになりますね。

 一方、「皇后」について同じ『令義解』を見てみると、

 皇后。謂ふ、天子の嫡妻なり。
(『令義解』公式令平出条)

とあるので、つまり天皇の正妻のことですね。まあ、これは一般的な認識と同じだと思います。

 ところで、朝廷の基本法である『令』には「中宮職」という役所が定められていまして、皇后、もしくは皇太后・太皇太后関係の政務を行うことになっています。現在まで残っている律令本文は757年に施行された『養老令』ですが、それに先行する701年施行の『大宝令』にも「中宮職」が定められていたことは確認されています。

 しかし、大宝令が施行された時の文武天皇には皇后はいませんでしたし、その後、元明天皇・元正天皇と女帝が続きます。そのため、『大宝令』施行以後初めて皇后を立てたのは聖武天皇。藤原安宿媛、いわゆる光明皇后のことになります。

 しかし、彼女には中宮職は仕えていません。それは彼女は初めての臣下出身の皇后であり、いわば藤原氏が握った権力を振りかざして無理に皇后位につけたものであるためです。その不自然な立后は役所にも関係したようで、彼女のために新しく「皇后宮職」という令外官(『令』にない官庁)が作られたのでした。

 その代わりではないですが、当時、皇后でないままに中宮職に奉仕された人物がいます。聖武天皇の母である皇太夫人・藤原宮子、その人です。皇太夫人とは、『令義解』に

 皇太后。謂ふ、天子の母にして后の位に登る者、皇太后と為す。妃の位に居る者、皇太妃と為す。夫人の位に居る者、皇太夫人と為す。
(『令義解』公式令平出条)

とあるように、夫人の位で天皇の母となったもののことです。彼女は文武天皇の夫人で、息子が即位して聖武天皇となったので、皇太夫人とされたのですね。これ以来、これが慣例になって、皇后・皇太后・太皇太后にはそれぞれ別の役所を作り、そのうち「中宮職」が仕える人を「中宮」と呼ぶようになりました。

 その後、宇多天皇に至るまで、皇后所生ではない天皇たちは、自らの母である「皇太夫人」に「中宮職」を仕えさせ、「中宮」と呼ばせました。その間、皇后には「皇后宮職」が仕え、皇太后や太皇太后がいる時には「皇太后宮職」や「太皇太后宮職」が仕えました。表にするとこんな感じです。

◆聖武天皇〜宇多天皇
皇后 皇后宮職
皇太夫人(中宮) 中宮職
皇太后 皇太后宮職
太皇太后 太皇太后宮職

 それが、醍醐天皇が女御・藤原穏子を皇后に立てたときに中宮職に仕えさせるように改めたので、それ以降、中宮=皇后になります。

◆醍醐天皇〜花山天皇
皇后(中宮) 中宮職
皇太后 皇太后宮職
太皇太后 太皇太后宮職

 藤原道長がやった二后並立というのは、本来「后の称」に対して役所が付属したのを、逆にして、役所の名前から后の称が定められるということにしたんだと、私は理解してます。具体的には、それまで藤原定子に仕えてた「中宮職」を「皇后職」に改称して、さらに、新たに「中宮職」を作らせ、自らの娘・藤原彰子に仕えさせた、ってことなんですね。

◆一条天皇以降
中宮 中宮職
皇后 皇后宮職
皇太后 皇太后宮職
太皇太后 太皇太后宮職

 だた、中宮は本来存在しない位ですので、正式な宣旨には「皇后」と書かれたそうですし、法的な扱いは中宮と皇后で全く変わらなかったといいます。そのうち、中宮・皇后・皇太后・太皇太后という名称は、「后」の位をもらった順番を表す名称に過ぎなくなり、院政期には皇后はもっぱら上皇の后、または天皇の准母に与えられる称号となりました。天皇と結婚しなくとも、内親王の格を挙げる為に立后されることなども起りました。

 南北朝以降は、朝廷が衰えたために立后は行われなくなりますが、江戸時代に入り、後水尾天皇に徳川秀忠の娘・源和子が入内するに至って和子に皇后宣下が下って復活しました。その時は中宮職が置かれ、中宮と呼ばれてます。また明治天皇の皇后に藤原美子が立ったとき、皇后宮職が置かれ、皇后を中宮と呼ぶ例は消滅しました。

 結論として皇后と中宮の関係は、時代によって変化している、ということがいえると思います。

 ところで、一般に、中宮が皇后と同じで意味であると考えられている背景には、『令義解』の影響も考えられますが、私は、後に「延喜聖代」「延喜聖帝」と呼ばれ、理想とされた醍醐天皇の時代に「中宮」と「皇后」が同じものを指していたからではないだろうか、と思っています。

(Written on 2002/10/07)


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