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豊原氏は、中世以降の京都方の雅楽の家の一つです。特に笙を生業とする家で、昭宣公(関白太政大臣藤原基経)から始まる系統の技を伝えるといいます。その系図である『豊原氏系図』が『群書類聚』に収められているのですが、この系図、大津皇子の子孫を名乗ってるんです。 眉唾ものだとは思いつつも、いちおー取り上げておきます。『続群書類聚』にも同名の系図が収められており、多少異動があるのですが、ここでは『群書類聚』のものを基本にします。 |
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系図上は大津の孫・公連が豊原朝臣を賜ったことになってますが、系図には時光の所に「或本、始めて豊原姓を賜ふ」とありますし、『続』の付録の「鳳笙相伝次第」では有秋に「始めて豊原姓を賜ふ」とあります。ですので、はっきりしません。歴史事典の類によると、豊原時光の子・時元が堀川天皇の師範になったことは史実のようで、時光・時元のころに雅楽の家として成立したのではないでしょうか。 それを示すのかは分かりませんが、時元が父を幼少に亡くし、習えなかった秘曲『大食調入詞』を、父の弟子だった新羅三郎こと源義光が後三年の役で出陣する際に随行して授けられた、という話があります。(ただし、時元の子・時秋とする話もアリ) この系図の面白いところは、天武天皇の下に大津と並んで舎人親王を記し、廃帝(淳仁天皇)まで書いてることですね。というのは粟津王に関して「実、知太政官事舎人親王の子なり」とあるからでしょう。だから本当の系図として父と天皇になった弟を記しているのでしょうが、となると大津の没年は持統元年(686)、舎人親王の生年は天武5年(676)ですから、大津没の時点で舎人は数え11歳。さすがにまだ子どもはいないと思うので、後になって息子の一人を大津の子ということにした、なんてことになってしまいますが…。 その一方で、粟津王に関して「皇子の謀叛に依りて肥前国豊原郡に配さるる。後、勅にて免ず」とあります。となると、大津謀叛の時点で粟津王は既に生まれていて養子になっていた、ということになります。矛盾しているぞ、この系図(汗) さらに粟津王の子である公連の箇所には「父の配所の名を以て姓と為す」とあります。ですから、粟津王が流罪になったことを前提として書かれているんですね。??? ついでに配所の名前を姓にするなんて、嫌がらせ以外の何でもないと思うんですけど。 もうひとつ言えば、粟津王の曾孫の有秋が村上天皇(在位946−967)の師ってのもちょっと年代的にキツいんじゃないかな、って気もします(^^;) ダメ押しもしておくと、大津の孫であるはずの「公連」という名前は、飛鳥・奈良時代の人名らしくないですね。 こんなわけで、妖しさ大爆発のこの系図(笑) 私は中世の豊原氏が雅楽の家として成立した後に、祖先を風雅皇子であったという大津皇子に求めて、新たに作り出したものだと思います。といっても大津が芸能関係で有名なのは詩であって、音楽じゃないんですけどねぇ。 一応、豊原という姓は『続日本紀』にも登場します。ただし、新羅系と高句麗系という渡来系です。雅楽で最近有名な東儀家も秦河勝の子孫、つまり渡来系を名乗ってますから、その辺りが実際のところじゃないか、って気はします。まあ、想像ですのでどなたか雅楽に詳しい方にご教授願いたいものです。 (written on 2004/01/30) |
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