奈良県五条市


 これは私の所属している研究会の飛鳥合宿で行ったものです。

 研究会の合宿は、初日の昼頃に近鉄橿原神宮前駅に集合して17時ぐらいまで史跡探索をするのが毎度のパターンなんですが、今回の探索地、五条は橿原から車で約1時間。橿原や飛鳥からは思っていたより距離がありました。兵庫県民の私からは、どっか、あっちの方でまとめてしまう感覚がありますね(^^;

1.宇智川磨崖碑

吉野川
栄山寺横を流れる吉野川
(写真/ikaruさん)

 まず、行ったのが宇智川磨崖碑です。現在、栄山寺は背後にある山と吉野川・宇智川に囲まれた位置に存在していますが、その宇智川の栄山寺側、不動橋の下方の大きな岩盤に刻まれている『大般涅槃経』高貴徳王菩薩品の一部と観音菩薩像(推定)です。宝亀の年号が記されているため、奈良時代の宝亀年間(770〜780に刻されたものだと言われていますが、そのころ既に存在したと思われる栄山寺(当時は「前山寺」)との関連は不明です。

 諸行无常 是生減法 生減□巳 奇減為楽
 □是偈句乃是過去未来現在諸佛可説開空法道
 如来證涅槃永断於生死若有至心聴
 常得无量楽
 若有書□讀誦為他觧一経其身於却後七刧不堕悪道
      宝亀□□□月四日工□□□□
                      智識□□

(宇智川磨崖碑『大般涅槃経』高貴徳王菩薩品)

 私たちが磨崖碑上まで行くと、五条市の文化財保護行政担当の方々が待っており、案内をして下さったのですが普段は浅い川を渡って磨崖碑の直前まで近づけるのが、前日までの降雨によって水量が増え、近づけなかったのが残念でした。そのため、遠くから眺めるだけになってしまい、岩盤の微妙な膨らみが、『五條市史』に載っている石仏に見えないこともないかな、ぐらいな感じでした。

 もっとも説明によると、近付いて見ても現在は剥落が進んでいて、文字が読める状態ではないそうです。近くの家には戦前に写し取った、かなり明瞭なものが伝わっているのもあるそうですが、それから考えるに、戦後50年の間にも剥落が進んでいるということです。岩盤に彫ったものだけに、切り取って博物館に入れるわけにもいかず、保護といっても、人為的な破壊を防ぐことぐらいで、後は具体的な方法がないそうです。自然の中で剥落していくのもまた自然の営みかもしれません、とそんなことも仰ってました。


2.栄山寺

栄山寺八角堂
栄山寺八角堂
(写真/ikaruさん)

 次に向かったのが、栄山寺です。藤原南家の祖、武智麻呂創建と伝えられるこの寺ですが、明治44年(1911)に本堂西の田の中から出土した唐草文軒平瓦片が、本薬師寺創建当時の唐草瓦と同形の瓦であることから、持統朝には相当規模の伽藍が存在したと言われています。

 栄山寺文書によると、養老3年(719)と天平11年(739)に武智麻呂が大和国宇智に田を賜っているので、事実だとすると、これが栄山寺と武智麻呂が関わるきっかけとなるのではないか、とのことです。

 天平宝字年間(757〜764)になると、正倉院文書に、東大寺が前山寺(当時の栄山寺の名前)に対して、藤原仲麻呂(武知麻呂の子)が在世のころ、仲麻呂によって借り受けていた経文を返還するよう命じる文書が見え、南家と栄山寺との関わりを伺わせます。この辺りの事情から仲麻呂創建と寺伝にある八角堂に関しても、寺伝がそのまま事実と見なされているわけです。

 栄山寺に400円の拝観料を払って入りますと、簡単なパンフレットがもらえるのですが、それに武智麻呂や仲麻呂の名前が「武智『磨』呂」や「仲『磨』呂」と書いてあったのが、かなりおちゃめな感じでした。「磨いてど〜すんねん!」というツッコミ多数(笑)

 八角堂は奈良時代から唯一残っている建築物で、内部には天平時代を回想させる中国風の派手な絵画が描かれていたそうなんですが、一度、間違って削り取られたこともあったそうで、今は本当に小さい残欠が残るばかりです。あまりに小さいので、外から内部を覗く程度ではほとんど見えないのですが、拡大写真が本堂の方に置いてあって見ることができました。

栄山寺梵鐘
栄山寺梵鐘
(写真/ikaruさん)

 梵鐘も、八角堂と並ぶ国宝なのですが、菅原道真の撰、小野道風の書という伝は、銘文が鋳造年として伝える延喜年間(901〜923)が道真が左遷された後の時代であることから、ずいぶん眉唾物の伝説ではないか、との指摘がされました。道真にしろ道風にしろ、当時第一級の学者と書家ですから、関係ないものでもハクをつけるために名前を使われる可能性は高いですしね。また元々この梵鐘があったとされる「道澄寺」の位置も不明です。

 そのようになかなか謎の多い梵鐘なんですが、国宝が無造作に吊り下げられて、普通に観光客が触れる状態だったのが、それなりにショックでした。教授曰く、「随分オープンやね」(笑)

道澄寺は
従三位守大納言兼右近衛大将行皇太子傅藤原朝臣、
参議左大辯従四位上行勘解由長官播磨権守橘朝臣、
四恩に報ひ六趣を済ふ為、財力を合せ建立す所也。

(栄山寺梵鐘銘文の一部)


3.御霊神社と宇智陵

 最後に向かったのが、非業の死を遂げた井上内親王ゆかりの御霊神社と内親王の墓である宇智陵です。井上内親王は聖武天皇の娘で、光仁天皇の皇后ですが、息子の皇太子他戸親王とともに廃され、のち暗殺されました。その後、怨霊となって自らを廃した桓武天皇や藤原百川を祟ったとされています。

 御霊神社は、霊安寺と呼ばれる寺と一体をなして成立した神社で、古くは延暦年間(782〜806)まで遡ることができるといいます。しかし、このころは小規模な寺社があったに過ぎないようで、後に京都を中心として広がった御霊信仰と絡まって、規模が拡張していったそうです。後に霊安寺は、廃寺となって真言宗満願寺に合併されたため、今は御霊神社のみが残っています。

 御霊神社の祭神は『霊安寺御霊大明神略縁起』によると、井上皇后、早良親王、他戸親王、雷神若宮の四柱となっています。しかし、官選史書に御霊として挙げられているのは、例えば『日本三代実録』に「所謂御霊は、崇道天皇・伊予親王・藤原夫人及び観察使橘逸勢・文屋宮田麿等是也」とあるように、すべて早良親王以降であり、井上内親王母子は入っていません。それにも関わらず、五條の御霊神社は御霊大明神として特に井上内親王を中心に、中央へも大きな力を持ったそうです。この辺りが、どういうことなのかは、はっきり分かっていません。

 井上内親王は、その子他戸親王と共に宝亀6年(775)に殺されましたがその後、墓が作られた形跡はありません。同8年(777)に桓武天皇が改葬を命じ、その「墳」を「御墓」と呼び、陵戸が一戸置かれた記事が『続日本紀』にありますので、このころから井上内親王の冤罪が晴れたようです。しかし御霊信仰が強く現れてくるのは延暦19年(800)で、井上内親王に皇后を復称し、「御墓」を「山陵」と呼ぶように命じた記事が『類聚国史』に見えます。

 詔して曰ふ。「朕思ふ所有りて、宣して故皇太子早良親王を崇道天皇と追称し、故廃皇后井上内親王を追って皇后と復称す。其の墓は並びに山稜と称せ。大和国宇智郡の一戸に、奉らせて皇后の陵を守らしむ。
(『類聚国史』延暦19年7月条)

 この名誉回復は、早良親王と同時に行われており、このことが宇智に関係のない早良親王が、御霊神社の祭神に入っている原因かもしれません。『霊安寺御霊大明神略縁起』には、早良親王は井上内親王の子とする伝承も記されています。

 御霊神社の建物は、現在のものは極普通の神社殿でした。ちょうどお賽銭箱の上あたりに蜂が巣を作っていまして(笑)、それでみんな右往左往してたぐらいでしょうか。宇智陵は円墳で、光仁・桓武朝のころの墓として、ふさわしい形だということでした。例に拠って、宮内庁が防御しているので中に入れないのですが、注意書きが「むやみに中に入らない」なので、「むやみちゃうから、入って良いのかな?」と言った私は廻りに止められたのでした(笑)

(written on 2002/03/18)


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