猫怖ぢの大夫


 これは猫を苦手にする人の話。『今昔物語集』に載っている話です。

 今は昔、大蔵丞より冠り給はりて藤原清廉と云ふ者有り。大蔵大夫となむ云ひし。
(『今昔物語集』巻28 大蔵大夫藤原清廉怖猫語第三十一)

 その猫が苦手な男の名は藤原清廉。平安時代の地方豪族なのですが、五位の位を得て大蔵大夫と呼ばれていたやり手の男でした。しかし、彼は「前世は鼠にてや有りけむ」と書かれるほど、猫が大苦手。この当時から「ネズミの天敵」といえば猫だと考えられていたことが伺えます。

 若い男たちがその噂を確かめようと清廉に猫をしかけたところ、「清廉、猫だに見つれば、極き大切の要事にて行きたる所なれども、顔を塞ぎて逃げ去」ったといいますから、相当に猫が苦手だったのだとようです。そんなことから付いたあだ名が「猫怖ぢの大夫」。かなり強烈な名前です。

 ところでこの清廉、やり手というのは書きましたが、山城・大和・伊賀の三国に渡る一大荘園の地主でした。現在の京都府・奈良県・三重県に渡るわけですから、小さな県1つ分ぐらいの広さがあったのかもしれません。『今昔物語集』では「器量の徳人」と書かれていますが、この場合の「徳」とは財産のこと、つまり大変な金持ちだったのです。

 しかし、時は11世紀初め。中央では摂関政治が最盛期を迎えていることですが、地方では地方豪族や軍事貴族が勢力を伸ばし、前上総介平忠常が叛乱を起す直前の時代。叛乱まではいかなくとも、国司に税を納めなかったり反抗する風潮が広がっていたころでした。当然、やり手の清廉もその風潮どおり、年貢を納めようともしない。

 そこで当時の大和国守・藤原輔公は考えました。「いかにして此れ責め取らむ」 清廉は単に地方豪族あるだけではなく、中央の大蔵省に出仕していた時期もあるだけに、都にも顔が聞くはずです。だから無下に捕らえて獄舎に繋ぐわけにもいかず、さりとて寛大に扱うと年貢を納めようともしないだろう。「いかがせまし」と輔公は思案します。

 その折、ちょうど清廉が国司館を訪ねてきます。そこで一計を案じて、輔公は清廉を侍が宿直に使っている二間四方の部屋に通します。清廉は普段苦い顔ばかりしている輔公が珍しく機嫌よく通すので、何気なく部屋に入る。すると後から侍がやってきて、その入り口をぴしゃりと閉めたのでした。

 輔公が清廉に言います。「大和の任は漸く畢ぬ。ただ今年ばかり也。それに、いかに官物の沙汰をば今まで沙汰しやらぬぞ」 今年で終わる大和守の任期の前に、案の定、年貢を急かす言葉。清廉は「そのことに候」と言ってから言い訳を始めます。

「この大和だけでなく、山城や伊勢も年貢の手配はしておるのですが、何せ広い土地なので手配が行き届かず遅れていること申し訳ございません。秋には完納いたします。他の方が国司をされている時ならともかく、輔公様が国司である時にはズルはいたしません」

 表面上は畏まった感じで答えながらも、清廉は内心「此は何事を云ふ貧窮にか有らむ。屁をやはりかけむ」と輔公のことをバカにしていて、いざとなったら伊賀国内の東大寺領に逃げ込もうと考えてました。東大寺ほどの大寺には、いかに国司とて手出しができなかったからです。

 輔公もその辺りは分かっていて、「主、かく口浄く云ひなそ」口先だけのことを申すな、今日この場で納入の手続きをせねば家に返さぬ、と詰め寄ります。しかし、清廉も「罷り返りて文章に付きてこそは、沙汰申し候はむ」帰った後に文章で必ず手続きをいたしますと、一度退出しようとします。この場さえ逃れれば如何ようにもやりようがあるのです。

 すると輔公は立ち上がって、「今日輔公、主に会ひて只死なむと思ふ也」今日、どうあっても命令が聞けないというなら、お前と刺し違えようと思っていると言った後、「男共や有る」外に控えていた侍たちを呼んで、「その儲けたりける物共取りて詣で来」準備していた例のものを、と言いつけます。

 そして部屋に持ってこられたのは。

 猫だ! 「灰毛斑なる猫の丈一尺余りばかりなるが、眼は赤くて琥珀を磨き入れたる様にて、大声を放ちて鳴く。ただ同様なる猫五つ、次きて入る」 猫6匹が部屋の中に放たれたのでした。猫たちは袖を嗅いだりして、清廉に纏わりつきます。その清廉の様子は「目より大きなる涙を落して、守に向かひて手を摺りて迷ふ」「気色ただ替わりに替わりて、堪え難きこと限りなし」「汗水に成りて、目を打ち叩きて、生きたるにもあらぬ気色」と書かれています。なんだか慌てふためく清廉の様子が目に浮ぶようです。

 清廉が観念して、即日完納を約束したのは言うまでもありません。

(written on 2002/05/02)


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