山辺の道


 研究会で行ったものです。といいますか、研究会で言い出されるまで「山辺の道」という言葉の存在を知らなかった私。でも、後輩の手前、あたかも知っているかのような顔で頷いていました(笑)

 そんな私みたいな「山辺の道」初心者のために、「紀行」本文に入る前に、簡単な解説をば(新しく知ったことだから、書きたくて仕方ないだけ)

 山辺の道は、三輪山の南西麓から奈良盆地の東縁を北上して、石上神宮を経て奈良山丘陵(京都府と奈良県の境)に到る古道です。三輪山の南西麓は、『万葉集』に海石榴市の「八十の衢」と詠まれる交通の要所で、そこから東に行けば伊賀・伊勢へ、西に行けば河内へ、南に行けば飛鳥へと行けました。その北の道が山辺の道なのです。

 『古事記』は、崇神天皇陵が「山辺道勾之崗上」にあり、また景行天皇陵が「山辺之道上」にあると記しています。また『日本書紀』にある

 石上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣きそほち行くも 影媛あはれ
(『日本書紀』武烈即位前紀)

の道中歌は、物部麁鹿火の娘・影媛が、まだ皇太子だった後の武烈天皇に恋人を殺された時に謡ったとされるものですが、石上から高橋・大宅・春日・佐保を経て奈良山へ到る道筋が示されています。これがほぼ山辺の道と同じルートであり、影媛は山辺の道を通ったのでしょうね。

 現在の山辺の道は、近鉄や奈良交通のハイキングコースに指定されているもので、元は昭和30年に整備された「東海自然歩道」を踏襲したものです。しかし、古代のルートには諸説があり、また必ずしも完全に道筋が固定されていなかった箇所もあるらしく、古代の山辺の道と完全に一致するものではないそうです。


1.天理教本部前〜石上神宮

 当日は5月ももうほとんど終わりかけの暑い日。まあ、天気に恵まれたというべきでしょうけれど。

 10時半に天理駅前集合の予定…が例の如く約15分ほど遅れての出発(汗) この日は天理教の祭日だったのか、近鉄では臨時列車が走りまくっていたので、あまりにもスムーズに来た私は1時間近くも早くに着き、仕方がないので、駅前のコンビニで立ち読みなどをして時間を潰してました。

 駅前には「天理教○○分教会」などの字の入った法被を着たたくさんの若者たちがせっせと働いている。さすがは天理教本部がある街。この天理教パワーに迫力負けしていると、「中世に伊勢参りを宣伝して廻った御師もこんな感じやったんかなー」などと院生の先輩。たしかに凄まじいまでの宗教パワーです。私の属してるキリスト教会にも、この勢いの10分の1でもあったらなぁーと思ったりしながらも、やっぱ無理かもと思ってしまう私は、不真面目キリスト教徒です(汗)

 全員集合した後、市内循環バスへ乗り込む。天理教本部前も通る路線なので臨時バス出まくり。でも、バスに乗り込むのは主にお年を召された方々が多いように感じてると、沿線で若い天理教徒の皆さんは本部まで歩いてるのが見える。「すげ〜よ、あんたら。若者の鑑だ」と涼しいバスの中から感心してた私はダメな若者です(汗) 同乗の天理教徒の皆さまが「天理教本部前」で下車すると、当然バスはすっからかん。私たち一行以外は全員天理教徒だったというのもまた凄いことですね。

 私たちも次の「石上神宮前」で下車して歩く。で、やってきました石上神宮。「石上 布留の神杉 神さびし 恋をも吾は 更にするかも」と『万葉集』に詠まれた布留の山の東端に位置する古社です。『日本書紀』にも一貫して「石上神宮」と書かれており、今でこそ「神宮」もそれなりの数存在しますが、古くから石上神宮の地位が高かったことを示しているのではないでしょうか。祭神は神武天皇の東征の時に霊威を発揮したとされる剣・布都御魂であり、朝廷の武器庫としての役割を果たしていました。古代朝廷において軍事を司った物部氏の氏神です。

 この石上神宮で有名なものといえば、やはり国宝にもなっている七支刀。江戸時代には「六叉の鉾」と呼ばれていたそうですし、同行していた先生も「中国古代に多く使われた"戟"に近いのではないか」と仰ってました。『日本書紀』神功52年に百済人から献上された「七枝刀一口」にあたるとする説があります。

泰和四年五月十六日丙午正陽、百錬の鋼の七支刀を造る。
出みて百兵を辟く。供供たる候王に宜し。□□□□の作なり
 (表)
先世以来、未だ此のごとき刀有らず。百済王の世子奇生聖音、故に倭王旨の為に造りて後世に伝え示さん (裏)
(石上神宮七支刀銘文)

 私としては、以前ゼミの発表で、『日本書紀』天武3年8月3日条に「忍壁皇子を石上神宮に遣はして、膏油を以て神宝を瑩かしむ。即日、勅して曰ふ、『元来諸家の神府に貯す宝物、今皆其の子孫に還せ』と」とあるのを調べたことがあるので、石上神宮で忍壁皇子のことを少し思い浮かべたりしながら拝殿の右方から禁足地を覗き込んだりしていました。

 禁足地というのは、名前の通り足を踏み入れてはならない場所で、古くから神体を埋めてある場所とされていました。明治7年に時の大宮司・菅政友が「伝承の立証」を掲げて発掘調査を行い、その時に4世紀の太刀が出土、その場所に本殿が建てられ現在の姿となっています。

 あと、どうしても気になったのが境内を走り回っている鶏。走ります。飛びます。私が近づいても動じる風もなく、逆に睨みつけてきます。随分とアグレッシブな鶏です。飼われているというよりは、きっと野生だと思います。


2.杣之内古墳群

 石上神宮を出てから、少し山辺の道を離れて峯塚古墳を探すものの見つからない。あとでインターネットで検索してみると「場所が判りにくい古墳のベスト3に入るだろう」とのこと。先生は粘って探してらっしゃったが、私などは早々と諦めムードに入ってました(汗) 結局、峯塚古墳はこの辺りのはず、ということで終りました。

 次は天理中学校のすぐ北にある西山古墳。全長185メートルだそうで日本最大の前方後方墳だそうです。でも実際に登ると分かるんですが、後方部の上部は円形になっていたりもします。墳丘の上に樹木が生えていないので、古墳の形がよく分かります。近くの子どもたちが後方部の上でお弁当を広げていました。そのまま前方部を突っ切って行くと、後方部から前方部の間にかなり高低差があってかなり気を付けて降りました。先生曰く、この高低差が大きい方が古い古墳だとか。

 さらにすぐ北にある塚穴山古墳へ。善福寺というお寺の墓地の南側、フェンスの向こうに上部が剥げた石室を曝している円墳です。なんとなく羨道が石舞台古墳と似ている気がしました。まあ、私が石室に入ったことのある古墳なんて、石舞台古墳ぐらいなんですけれどね。元は径60メートルの巨大な円墳だそうです。そこから少し南に戻って、今も水を湛える濠から西山古墳を見ると水際の所に葺石が見えました。

 天理中学校の校内をつっきって西乗鞍古墳へ向かいました。この頃から先生方と学生の歩みに差が出始めます(笑) 学生を置いてどんどん進まれる先生方。やはり最近の学生は柔なのだろうか、と内心思いつつ、必死で先生を追いかける私(笑) なんとか遅れずに西乗鞍古墳到着。

 西乗鞍古墳は出土した埴輪や須恵器などから、古墳時代後期の古墳だといわれています。確かに先ほどの西山古墳(古墳時代前期)と異なって、前方部と後円部の上下差があまりありませんでした。周囲の水田より1段高くなっている馬蹄形の基壇は、現在公園になっていて、家族連れらしい一団がボール遊びなどをしていました。私たちも、ここで弁当を広げて少しエネルギーを補給。なにせ、柔なもので(汗)

 西にいったのだから、というわけではないのですが、今度は東乗鞍古墳。ここは後円部の南側から横穴式石室の入口が開いているので石室に入りました。暑い日だったので、ひんやりとした中は気持ちが良い。ペンライトがあったものの、ほとんど光の差し込まない石室内は闇に包まれていました。しかし、現代の様に夜でも光が溢れてるわけでもなかったので、古代人にとっては闇も私たちよりは近しい存在だったかも、などと感じたりもします。奥の方は石室が崩れていて、せっかくの家型石棺は半分ほどが土に埋もれています。


3.夜都伎神社〜大和古墳群

 東乗鞍古墳の次は丘を一つ越えた夜都伎神社。読み方には諸説あって、「やつき」「やとき」「よとき」「おとき」などがあるそうな。一応、案内板には「やとき」と振仮名がありましたけれど。ここは本来、春日神社だったそうで、奈良の春日大社と関係が深く、明治維新までは「蓮の御供」と称する神選を献供し、春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていたといいます。現在の本殿も檜皮葺だったのは、なかなか気合が入ってるなーと感心(笑) 瓦は本来仏教のものですからねー。

 その辺りから再び山辺の道に戻って進みました。大阪側からとは逆向きの二上山を遠くに望み、いちごの甘い香りに誘われながら、行く先には入道雲が待ち構えているという、当にハイキング日和。ちょっと暑いのが難点ですが(笑)

 そんな中、池越しに登場する西山塚古墳は、現在は全体が果樹園になっていて、果物が栽培されてます(笑) 全長114mの前方後円墳ですが、時代が下ればこんなもの(笑) 被葬者の立場になるとたまったものじゃありませんが、逆に後にここで暮らした人にとってみれば、地券もないのに広大な土地を占有されるのも困ります(笑) まあ、破壊してるわけじゃないんだし、いいんじゃない?と勝手に判断を下す私でした。

 西殿塚古墳は全長220メートルの巨大前方後円墳。衾田陵と呼ばれて、継体天皇の皇后・手白香皇女の墓(衾田陵)とされてますが…前方部が撥型に開いていることや特殊円筒埴輪が存在することから、実際には2世紀ほど遡るんじゃないかといわれてます。が、○内庁が「衾田陵」と言い張っているために、調査はできません(汗) こーゆー時の宮○庁、嫌いです。権力的だし。

 その次に登場する燈籠山古墳は、すぐ隣にある浄土宗念仏寺の墓地と化してます。西山塚古墳と同じように再利用(笑) ホンマこういうのを見ると、宮○庁が「○○陵」と言い張ってるのが逆に滑稽に思えてくるから面白い(笑) この墓地化はかなり私のツボに入り、一人で「墓の上に墓がある」と言ってゲラゲラ笑ってました。疲れてたみたいです(笑)


4.大和若宮神社〜長岳寺

 燈籠山古墳の辺りでドリンクが切れる。ちょうどお誂え向きに設置されてる自販機で補給。なぜかペットボトル100円。安いのは嬉しいが、あまり聞かないマイナーな名前のドリンクが並んでいます(笑) 値段を下げないと売れないような種類なのか、とちょっと思ったり(笑)

 そうしている内に、目の前に「元官幣大社大和神社前」という碑が現れる。そっか、ここが大和神社なんだーと思ってると、先輩がツッコミを入れる。

 「なんで元官幣大社大和神社『前』やねん!?」

 ホンマや!! 前って書いてある!!! 地図で確認すると、大和神社は現在地から500メートルぐらい離れたところにある。で、ここは大和神社の摂社・大和若宮神社でした。じゃあ、そう書けば良いのに……謎です、大和若宮神社(笑)

 大和若宮神社を越えたところには、柿本人麻呂の妻を亡くした悲しみの和歌「衾道に引出の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし」の歌碑がありました。そこで記念撮影。

 その後、長岳寺へ。山号は釜口山。ヤマトタケルの10男・釜見王に由来するとも言われる地名です。『大和国陳述名鑑図説』には、釜見王の後裔・釜口氏の廟所に弘法大師空海が精舎を建立したのが始まりだといい、『長岳寺金剛身院旧記』にも弘法大師開基を記されていますが、実際にはその創建は定かではありません。仏教史を研究されている院の先輩は、南都と空海の繋がりが影響しているかもしれない、と仰ってました。

 本尊・阿弥陀如来坐像は日本最古の玉眼仏像だといいます。玉眼仏像は普通、鎌倉時代の仏像なのですが、長岳寺のものは平安末期の作なんですね。あと、楼門も平安時代の創建当時のものと伝えられています。当然、この楼門前で記念撮影(笑) ほかには庫裏(旧地蔵院)ではそうめんが食べられると書いてあったので、非常に食べてみたかったのですが、先生方が先に進まれるので断念。

 長岳寺前の「トレイル青垣」なる休憩所で一服。無料の水やお茶を飲みまくる私。すでに100円ペットボトルの中身は空になっていました。休憩所内には常に「歴史街道」のCMでおなじみ、あのBGMが流れ続けていました(笑)

5.柳本古墳群

 気力を回復させて行燈山古墳へ。ここは、『日本書紀』に「ハツクニシラス天皇」、つまり初めて国を治めた天皇と書かれた崇神天皇の陵ということになっています。「なっている」というのは、西殿塚古墳伝衾田陵で書いた通り、宮○庁の指定はあまり信用できないから。まあ、ここに関してはまあ、信用できるんじゃないかなーとは思いますけどね。ただ、初代大王の墓に相応しい立派な高さ7メートルにもなる堤や周濠は実は江戸時代に柳本藩が改修したもので、古墳時代からの濠であれば出るはずの葺石が出土しないのだそうです。江戸時代や明治時代に行われた「天皇陵改修」の類は、見た目を立派にするために元々の古墳などを破壊してしまうことが多く、まったく困ったことです。今の○内庁の指定にも繋がりがあるので、なかなか根が深い問題ですね。

 ここでそろそろ時間も遅いということで、JR柳本駅から帰途につくことに。しかし、途中に存在した黒塚古墳はしっかり通って行きます。今は公園となっている黒塚古墳、ここは三角縁神獣鏡が全国最多の33枚も出土したことで一躍有名になりました。三角縁神獣鏡は中国三国時代の魏から「親魏倭王」卑弥呼に贈られた鏡ともされる鏡ですが、大陸での出土例がないこと、実在しなかった「景初四年」年号が記されている例があることなどから、簡単にはそうとも言い切れない不思議たっぷりの銅鏡です。

 やっと着いたJR柳本駅。そこから電車に乗って天理駅まで戻ったのですが、今日1日分の行程がたった2駅分だと思うと少し悲しく思ったりもする(笑) そして天理に到着すると、研究会恒例の飲み会。 しっかりベロベロに酔わされて、この日の散策会も終わったのでした…。

(written on 2002/07/23)


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