なにわ


 矢釣宮のオフです。

 参加者は主催者の『矢釣宮』の沙耶さん、『斜メ歴史館』の遊子さん&賢鬼さん、『紫桔梗』のこしろ毬さん、『難波津』のくろさん、碧穂さん、小池かなさん、そして私の計8人。うち、「難波のツアーコンダクター」こと、くろさんが今回のガイド役をつとめて下さいました。


1.難波宮跡公園

難波宮跡公園
現在の難波宮跡公園
台状なのが大極殿跡 右下が八角殿跡
(撮影:くろさん)

 当日は難波宮大極殿跡にて9時半集合。「入り日を招き返す手に〜♪」とついつい能『難波』の一節を謡ってしまうほど気分ノリノリで来た私。しかし、誰もいません(汗) この時になって初めて、私、オフ会の他メンバーとの連絡手段を持っていないことに気付いたのでした(笑) 携帯電話の番号ぐらい誰かに教えときゃよかったとしきりに後悔です。

 仕方ないので、周りの風景を眺めるなりして過ごす私。大極殿の北には旧NHK用地を挟んで大阪城の天守閣が見えます。考古学の授業によると、難波宮は周りを見下ろせる丘の上に作られたとか。元々そういう場所だからこそ、豊臣秀吉も大阪城を作ったんだろうなーとか考えてみます。まあ、大阪城の前には石山本願寺があったわけですが、宮も寺も城も、庶民より高いところに居たがるんですね(笑)

 しかし、そのまま20分近く経過。だんだん不安で堪らなくなってくる。すると黒い服を着たおにーさん登場。もしかしたらH.N.の通り「くろ」さんかも…と思いつつも、間違いだったら嫌だから声かけず(←をひ) すると向こうから声を掛けてくれました。やっぱりくろさんでした。

 しかし、これでも2人。くろさんが携帯を取り出して、電話をかけるものの繋がらず。そろそろ10時やし、大丈夫かなーと思ったころ、くろさんの電話が鳴る。同時に向こうから駆けて来る女の人3人。こしろ毬さん、碧穂さん、沙耶さんでした。…光画部時間((C)ゆうきまさみ)みたいに前後30分を時差を認めるなら先に言っててください(笑) とゆーことで、よーやく安心し始める。次いで小池かなさんが登場して大阪歴史博物館へ移動し、そこで遊子さん&賢鬼さんコンビと合流して、やっと集合したのでした。


2.大阪歴史博物館

橘諸兄
ダンディなくろさん…ではない(笑)
橘諸兄の左大臣と宮廷女官たち
(撮影:くろさん)

 NHK大阪放送局と同じ建物で有名(?)な大阪歴史博物館。実はこの大阪歴博も最寄駅の大阪市営地下鉄「谷町四丁目」駅って、山本能楽堂・大槻能楽堂という2つの能楽堂の最寄駅なんですよね。だからこの辺りってよく来る。でも大阪歴博へ行く時間はあまりないので、いつも行けず。身近なものは気合入れないと全然行けない、という好例です。

 オフ会メンバーの中では、遊子さん&賢鬼さんと私だけが学割料金な入場券を買って入ると、いきなりエレベーターで10階へ。10階から順々に降りていく仕組みになってるわけですね。10階へ到着していざ行かん、と思ったとき、碧穂さんがいない!? 遭難か? やれ電話かけろ、いや一度エレベータで下に戻って探すべきだと、エレベーターホールで騒いでいると、普通に碧穂さん再登場。なんか下で荷物が預けられる場所があったので、荷物を預けてただけだそうな。まずは一安心。

 10階では大スクリーンで天平16年(744)2月26日、左大臣橘諸兄によって難波宮を皇都とする旨の詔勅が発せられる儀式を再現した映像が再生され、それが終わると今まで閉じていた壁がぐぐぐっと持ち上がり、現在の難波宮跡が見えるような仕組みになっていましたた。

 初め見るときは「すっげぇ」と感心する仕組みなんですが、開いた窓から難波宮跡や遠くに見える二上山などをよく眺めようと思うと、すぐ次の映像を流すために壁が下がってくるんですよね(汗) 5分に1回ぐらいの間隔で映像を流すから、ああなるんですが、外を見てた人間(つまり私とかなんですが)には一気に白けて「もう次行こっか」という気分にさせるので、その点は考え物じゃないかなーと思いましたね。

 あと、人形とかはよくできてるのに、天皇が坐す高御座が板に書いた絵ってのが悲しいっす(笑)

前期難波宮八角堂
前期難波宮八角堂復元模型

 難波宮遺跡は発掘調査の結果、前期と後期との遺跡に分類されていますが、そのうち前期難波宮は大化元年(645)の蘇我氏本宗家滅亡後に飛鳥から都が遷された難波長柄豊崎宮だとされています。前期の遺構で特に目立つのは八角殿で、寺院などには多いのですが(法隆寺東院夢殿など。「奈良県五条市紀行」の栄山寺八角堂も)、宮殿建築としては他に例を見ない、つまり仏教建築なんだそうです。…と、偉そうに言ってますが解説読んで初めて知りました(笑) 孝徳天皇は神道を軽んじ、仏教を敬ったという『日本書紀』の記述からすると、この難波宮の八角殿は孝徳の趣味が強く反映された建築だということができるわけですね。

河内国印
こどもスタンプラリー
「河内国印」

 天萬豊日(孝徳)天皇は天豊財重日足姫(皇極)天皇の同母弟なり。仏法を尊び、神道を軽んず。生国魂社の樹を斬る類、是なり。人と為り、柔仁にして儒を好む。貴賎を択ばず、頻りに恩勅を降す。
(『日本書紀』孝徳即位前紀)

 この即位前紀で樹を斬ったという生国魂社は、今は天王寺区にある生国魂神社のことです。毎年、大阪薪能が行われる神社で、現在は難波宮跡から南へ下った場所にありますが、元々は難波宮の近くにあったのを豊臣秀吉の大坂城築城の時に場所を移したものなのだそうですね。

 下に行くと9階が中世近世、8階が近代現代の大阪だったんですが、古代でこれだけ書いたので省略(笑) 敢えて書くなら、中世近世でこの時代が専門な賢鬼さんがハッスルしてたことっすね(笑) あと、各階に2つずつ備え付けられている「こどもスタンプラリー」を結局ほぼ全員がやったことでしょうか。どこにいるんだよ、こども(汗)


3.和光寺あみだ池

 さて大阪歴史博物館を出て、大阪市営地下鉄「谷町四丁目」駅から電車に乗って「心斎橋」駅へ。時間はすでに1時過ぎ。そろそろお腹が空いていたので昼食を食べるため、お好み焼き屋に入ったのでした。やっぱ大阪名物。

 8人は多いので、沙耶さん・くろさん・遊子さん・賢鬼さんのグループと、碧穂さん・小池かなさん・こしろ毬さん・私のグループに分かれて座ります。座るや否や、すぐに焼きそばを注文する私(笑) 注意・ここはお好み焼き屋。だからなのか、このお店、お好み焼きを注文すると、目の前の鉄板でスタッフが焼いてくれるんですが、焼きそばの場合は、もう火の通ったものが鉄板の上に置かれて終わり(笑)

 徐々に固まって行きつつも、なかなか出来上がらないお好み焼きがある一方、最初から出来ていてどんどん焦げていく焼きそば(笑) 「食べないと焦げるから」と先に食べることを勧めてくれるお三方。しかし、目は焼きそばを狙ってるようにも見えます(笑) 結局、少しずつ箸を付けていったのですが、お好み焼きができあがるころには粗方食べ終わってた私がいました(汗) 選択ミスしたなぁーと、ちょっと後悔。

和光寺あみだ池
和光寺あみだ池
難波の堀江だという
(撮影:くろさん)

 そんなことのあった昼食の後、再び地下鉄に乗って「西大橋」駅下車。そこから和光寺という尼寺へ向かったのでした。この和光寺。正確にいうと隣にあるあみだ池なんですが、くろさんによると、仏教公伝のころ、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争ったとき、物部氏が仏像を投げ捨てたという「難波の堀江」だというのです。

 (蘇我氏が仏教を崇敬し始めた)後に国に疫気行りて民、夭残す。久にして愈多し。治め療すこと能はず。物部大連尾輿・中臣鎌子連、同奏して曰ふ、「昔日、臣が計を須ゐたまはずして、斯の病死を致す。今遠からずして復さば、必ず当に慶び有るべし。宜しく早く投げ棄て、懇ろに後の福を求むべし」と。天皇曰ふ、「奏すに依れ」と。有司、乃ち仏像を以て、難波の堀江に流し棄つ。復、火を伽藍に縦く。焼き尽きて更に余りなし。
(『日本書紀』欽明紀、欽明13年10月条)

 この時に棄てられた仏像を、推古10年(602)に信濃の本田善光という男が拾って、故郷に持って帰り、この仏像を本尊として寺を作ったといいます。それが信濃善光寺で、その善光寺が元禄7年(1694)に本尊を四天王地へ出開帳のとき、この付近に念仏修行の堂を建てたのが、和光寺になったとされています。

 へその曲がった私なんかは、本尊が難波から来たという伝承を持つ善光寺が出開帳の時に、箔をつけるため、それらしい場所を「本尊出現の地」とかいって宣伝したんだろうなーと思うんですが(笑) でも実際、難波津もこの辺りっぽい気もしますね(←気がするだけ) まあ、その辺りは地質学の成果次第ですけれどね。

 で、実際に和光寺に行ってみると、門が閉まってました(汗) これで行けないのか、とあたふたしていると、横の駐車場入り口から入れそう。ということで入ってしまいました。閉めてるんか開けてるんか、どっちかはっきりせい(笑)

 入った私たちは和光寺本堂には見向きもせず、そのままあみだ池へ。『摂津名所図会』にも「世の人寺号を唱へずして阿弥陀池とのみいふ」とあるそうですが、私たちもあみだ池のみに用事があったわけ(笑) まあ、「善光寺本尊出現の地」なわけですから、逆にいえば今は何もないわけで。あみだ池をナンボ見ても、蘇我稲目の「向原の家」に祭られてた仏像が見えるんじゃないんですけれどね(^^;) ちなみにその「向原の家」は後に豊浦寺になったといいます。あと、あみだ池の横にある、いわくありげなお地蔵さんとかはしっかり見させていただきました。お地蔵さん含め、和光寺について詳しい話は、くろさんのHP『難波津』にある「難波の堀江」第2章に詳しく書いてありマス。


4.阿倍晴明神社〜阿倍王子神社〜松虫塚

阿部晴明神社周辺
阿倍晴明神社周辺地図 http://channel.goo.ne.jp/map/より

阿倍野保名郵便局
これが阿倍野保名郵便局だ
晴明ファンなら行くべし
(撮影:くろさん)

 和光寺を出てすぐ南に行ったところにある「西長堀」から再び地下鉄に乗って「昭和町」下車。そっから歩いて阿倍野へ向いました。目的は阿倍晴明神社。あの陰陽師・安倍晴明の生誕地といわれている場所です。もっとも『大日本資料』に引用されている『讃岐国大日記』には讃岐国香東郡井原庄の出身と書かれているんですけどね。まあ、生誕地が未確定であるぐらいが、希代の陰陽師・安倍晴明らしいのかもしれません。

 松虫の交差点の辺りから熊野街道へ入り、しばらく進むと「阿倍野保名郵便局」という郵便局あってビックリ。こしろ毬さん狂喜! 安倍保名といえば、浄瑠璃ほか芸能の世界で語られる晴明の父親の名前です(ちなみに『尊卑分脈』や『安倍氏系図』によると、晴明の父は大膳大夫・安倍益材)。ほかに地図を見れば近くに「晴明通」だとか、晴明に由来するっぽい地名が見えます。もっとも阿部晴明神社のHPには社内にある「泰名稲荷神社」(←たぶん地名の「やすな」に由来する)に関して「同じ『やすな』ですが、関係はありません」と否定していますが。

阿倍晴明神社境内
中央「安倍晴明誕生地の碑」
左「安倍晴明公 産湯井の跡」
右「沈め石」
(撮影:くろさん)

 ほかに神社内には「安倍晴明誕生地の地」の碑とか、「安倍晴明公 産湯井の跡」(←「跡」なのに注意。現在の井戸は後になって作ったもの)なんてのもあります。それぞれ見つけるたびに毬さん狂喜乱舞!(笑) 私などが、なんとなく晴明が好き、と言ってるのとは「好き」のレベルが違うんだなーとものすごく感じさせられました。

 阿倍晴明神社の見終わった後、更に南の阿倍王子神社へ。「王子」とは熊野大社の末社という意味で、京都から摂津、和泉を経て熊野に至る熊野街道の途中に、休憩と遥拝のために設けられた宮のことです。全部で「九十九王子」と呼ばれた第2の王子がこの阿倍王子です。藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』に、多くの熊野詣の貴族たちが立ち寄った様子が書かれています。定家が仕えていた後鳥羽院は、29回も熊野詣をしたといいますから、その行き返りの度にここを通ったわけですね。

 現在、阿倍晴明神社は単独の神社ではなく、こちらの阿倍王子神社によって管轄されているわけなんですが、行ってみると現在の晴明ブームのため、映画『陰陽師』のポスターが貼ってあったり、晴明グッズを販売してたり、逆に阿倍王子神社の方が阿倍晴明神社に飲み込まれてるんじゃないかと思ったりしました(笑) まあ、晴明ブームが引いたりしたら元に戻るんでしょうけど。

松虫塚
松虫塚
昔は松虫のなく野原だったという
(撮影:くろさん)


 阿倍王子神社から松虫の交差点へ戻り、この交差点の名前の由来ともなっている松虫塚へ。松虫の美しい音に誘われて野辺にさまよううちに、この地で死んだ若者を慕って、その友人がまた嘆き悲しみ自害したという男同士の友情ホ○の愛情を描いた能『松虫』の舞台です。いやー松虫塚ってこんなところにあったんですね。全然知らなかったッス(笑) ちゃんと謡本には「摂津国阿倍野」って書いてあるのに。

 松虫塚には能になった伝承とはまた違った伝承も存在します。後鳥羽院に仕えていた官女の松虫・鈴虫姉妹が、法然上人に帰依して出家したのを院の勅勘を蒙り、上人は土佐へ流され、鈴虫は行方知れずになり、松虫はこの土地へ来て亡くなったのを塚に葬り、松虫塚と名づけたという伝承です。全然詳しくないんで知らないんですが、法然ってカッコいいお坊様だったのでしょうか? なんか女性にモテる話が多い気がします(笑) …浄土宗のみなさま、申し訳ありませんでした。

 ところで「松虫」「鈴虫」について、能『松虫』に「松虫の声りんりんりんとして夜の声冥々たり」という一節があることから、「りんりん」と鳴く「松虫」とは現在の鈴虫のことだとされることが多いのですが、これはあくまで文学上の虚構であって信ずるに足らないとする説が、上坂信男・神作光一/全訳注『枕草子』(講談社学術文庫)に載っていました。


5.御津八幡宮〜その後

 松虫塚のあと、聖天山にも行ったんですが、あんまし興味を惹くものがなかったので省略(笑) この辺りで沙耶さんと阿保親王のことで話が盛り上がる。「やっぱ、アホ親王って読むんですかねー」とか、因果な名前ですよね(笑) ちなみに阿保親王は平城天皇の第一皇子で、在原業平の父に当たる人物。弘仁元年(810)に起きた「薬子の乱」で失脚した平城天皇の皇子ながら、後には弾正尹宮などに出世している、なかなかのやり手親王だったりします。それでも一番インパクトあるのはその名前。まあ、正しくは「あぼ親王」って読むみたいですけどね。

 「岸里」駅から地下鉄に乗って、再びくろさんのお膝元「心斎橋」駅下車。ここで碧穂さんはお別れ。ちょっと残念。

 心斎橋など大阪ミナミ側の町にはほとんど来たことがないのでちょっと新鮮な感じで歩いていると、くろさん曰く、難波京最西端との説の道を歩いてるそうな。今は完全に街中なんで、ちょっと信じられない感じすらしてしまう(^^;) その内、街中に神社出現。これが御津八幡宮。東大寺の大仏建立にあたり、宇佐八幡宮の神霊が力添えをするべく平城京へ上るということがあったのですが、その時、この御津の地に上陸して一時安置された。その跡に社殿を建てたのが、この御津八幡宮なんだそうです。この御津は空海が唐へ渡る際の出航地であったともいい、古代の難波津の拠点のひとつだったわけですね。

 あとで気付いたんですけれど、この御津八幡宮の御津って、能『蘆刈』の中でも特に、謡い所・舞い所とされる『笠之段』の直前に

従者「いかに申し候。さて御津の浜とはいづくにて候ふぞ
蘆売「忝くも御津の浜の御在所はあれにて候
従者「不思議やな。なにとて忝きなんどとは仰せ候ふぞ
蘆売「あら。なにともなや。さらば何とて御津の浜とはおん尋ね候ぞ。忝くも仁徳天皇この難波の浦に大宮作りし給ふ。おん津と書いて御津の浜とは申すなり
従者「げに面白き謂われかな。皇居なりつる浦なれば。御津の浜とは理なり
蘆売「波涛海辺の大宮なれば。漁村にともす篝火までも。禁裏雲居の御火かと見えて。上雲上の月卿より。下万民の民間までも。有り難かりし恵みぞかし。や。あれ御覧ぜよ御津の浜に。網子調ふる網船の。えいやえいやと寄せ来るぞや

(能『蘆刈』)

と問答が交わされる、あの御津だったんですね。当日には全然気付きもしませんでしたが。

道頓堀グリコ広告
道頓堀グリコ広告
W杯仕様

 その後、大阪名物たこ焼きを食べる。ちょっと変わったカレーたこ焼きなんかもありました。美味美味。思えば店で食べるたこ焼きなんて始めてかも。だいたい屋台とか、そんなところで発泡スチロールの皿に載せたものを食べるものですからね、たこ焼きって。で、なんか残飯処理係にされる(笑)

 たこ焼き食べ終わると、お疲れの小池かなさんとお別れ。そんで持って、道頓堀へ出る。W杯日本代表ユニホームに着替えたグリコの看板を見たり、食い倒れ人形を見てはしゃぐ皆さんを眺める私(笑)

 で、最後は飲み。飲み放題を設定し、飲みまくる遊子&賢鬼コンビ。負けじと私もちょっと頑張るが敵わず(汗) とりあえず口がヒートアップしてたそうです。邪悪モードに入らず良かった(笑) 一方、沙耶さんは口数が減っていく。隣の私が喋り過ぎたせいかしらん(汗) 毬さんもきっとたじたじだったに違いない(笑) くろさんも、結局、女子大生コンビに結構な量を飲まされてました。ご愁傷さまです(違)

 飲み放題の時間が終了したことで、飲み会は終了。その後、大阪市営地下鉄「難波」駅までくろさんに案内していただいて、そこで解散となりました。さすがは難波ツアー。見事、難波宮大極殿跡から始まり、「難波」駅で終わるとは。

 一日案内ご苦労様でした。>くろさん

(written on 2002/06/29)


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