伏見稲荷大社の能舞台

伏見稲荷大社の能舞台

本殿のすぐ脇にたたずむ能舞台

伏見稲荷大社と能といえば能〈小鍛冶〉の舞台です。すでに先々月の話ですが、伏見稲荷大社に初めて行ってきました。すると本殿の脇にどう見ても能舞台としか言えない神楽殿を見つけて興奮していた私。

そして行ってからひと月あたりも経った頃になって、行く前から少しずつ読み進めていた天野文雄『能楽逍遥(下) 能の歴史を歩く』という本の後半に「伏見稲荷大社の能舞台~建造の経緯とその後の歩み」という論が収録されていたことに気付いて凹みました(苦笑)

バカ丁寧に最初から順番に読んでいたのですが、せめて目次を気をつけて見ていれば…。

伏見稲荷大社能舞台の歴史

以下、「伏見稲荷大社の能舞台~建造の経緯とその後の歩み」によって書いています。

伏見稲荷大社の能舞台は明治15年(1882)にシテ方金剛流の能楽師・金剛謹之輔(今の家元・金剛永謹師の曾祖父)とその後援者が、当時行われていた伏見稲荷大社の修復にあわせて奉納したもの、とのこと。

謹之輔が伏見稲荷大社に能舞台の奉納を思い立った具体的な理由は分からないものの、彼が〈小鍛冶〉の芸に悩んでいて稲荷の長者社に籠ったところ、「白頭」の小書(特殊演出)で演じられる「狐足」という足遣いを感得したというエピソードがあるなど、伏見稲荷と深い関わりがあったらしいのは面白かったです。

翌明治16年9月15日には舞台披きの能が行われ、金剛流の大パトロンだった大阪の両替商・平瀬露香の能〈小鍛冶〉、同じく観世流の大パトロンだった伊丹の酒造業者・小西新右衛門の能〈道成寺〉、そして片山家6世の片山晋三による能などが演じられたとのこと。平瀬・小西のふたりは、大阪の商人と能ということで調べたこともあるので、嬉しくなってしまいました(^^)

ただこのとき、能舞台奉納の中心人物であった金剛謹之輔がシテをつとめていないらしいことがちょっと気になります……。

以来、春秋に定期的に奉納能が演じられるなど伏見稲荷大社の能舞台は使用されていたようで、中には3000人もの見物客を集めたという梅若万三郎・六郎兄弟による奉納能(昭和5年)も行われました。

しかし、昭和34年の稲荷大社修復の際に、能舞台は西側後方に移転、同時に橋掛が舞台に対して直角になるように改造され、名前も「能楽殿」から「神楽殿」へと改められて以来、能が演じられた記録は確認できないそうです。

茂山千五郎家・忠三郎家による狂言奉納は今でも時折行われているようですが、能がないというのもさみしいなぁと感じます。

Pocket
LINEで送る

柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

オススメの記事