華原磬・泗濵石

興福寺

少し気が抜け気味です

「四季の狂言の会」が終了してから、少し気の抜けている柏木ゆげひです。なんとなく気分は能『邯鄲』。あの会に関われたことは幸せな一炊の夢だったんじゃないかと(笑) 今はたヾ夢覚めて心は茫然とせし様にて候。

奈良興福寺の国宝館へ

さて、16日は奈良に行く機会があったので、ついでに興福寺の国宝館を覗きました。さすがに南都興福寺。充実した国宝館で、有名な阿修羅像や元食堂の本尊であったという千手観音菩薩像に感嘆。

あと古代史ファンとしては、大化改新時の右大臣・蘇我倉山田石川麻呂ゆかりの山田寺の本尊であったのが、鎌倉時代に強奪されて興福寺に移ったという薬師如来仏頭が感慨深いです。現在、国宝指定されていることもあり、仏頭の写真を使用したファイルなどがお土産屋でも売られていましたが、遥か過去の話とはいえ、「他の寺から強奪したお宝を堂々と展示する興福寺ってツワモノ」だと思いました(笑)

それから能《海人/海士》に登場する華原磬・泗濵石(泗濵浮磬)も展示されてました。もっとも謡から言葉だけ知っていて、どんなものなのか初めて知りました。説明文によると「磬」とは石や玉で作った打楽器のことで、「華原」や「泗濵」は中国国内の磬石の名産地の名前だとか。《海人》は金春権守作ともいわれる古作の能ですが、興福寺出入りの大和四座として、華原磬・泗濵石といった興福寺の重宝に触れる必要があったのでしょうか。

それにしても淡海公=藤原不比等といえば日本古代史においては並ぶ者のない権力者ですが、それでもその妹が唐皇帝の后になる、というのは、普通に考えてあり得ない話です。そんな伝説が、どこから出来てきたのか、その元を妄想してみるのも楽しいですね。

今の大臣淡海公の御妹は。唐土高宗皇帝の后に立たせ給ふ。さればその御氏寺なればとて。興福寺へ三つの宝を渡さるる。華原磬・泗濵石。面向不背の珠。二つの宝は京着し。明珠はこの沖にて龍宮へ取られしを…
能《海人》

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柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

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2件のフィードバック

  1. びいすと より:

    こんにちは。
    >他の寺から強奪したお宝
    そうなんですか?(汗)
    興福寺ファンとしてはショックな事実ToT
    まあ、ファンといっても、無著菩薩立像のファンなので、
    実はそれほど詳しくないのですが・・・。
    この機会に、国宝館展示物について勉強してみようと思います!
    「四季の狂言の会」おつかれさまでした。

  2. ★びいすとさん
    コメントありがとうございます。
    興福寺ぐらい歴史が古くて、大きな勢力を保ち続けた
    寺院になると、いろいろな歴史がありますね。
    鎌倉・室町時代には、大和国には武士の守護が置かれず、
    興福寺が兼ねたといいますから、その武力も武士に匹敵したわけです。
    「強奪」だなんてツッコミを入れましたけれど、
    非難する意味で書いたわけではないのです。
    仏塔がかつて置かれていた山田寺は今は存在しない廃寺ですから
    興福寺に移っていなければ残ってなかった可能性も高いですし。
    良し悪しではなくて、それで普通だと思いますから。
    イギリスの大英博物館だとか…。
    無著菩薩立像…興福寺北円堂の仏像ですね。
    元明・元正両女帝の発願で、藤原不比等の慰霊のために
    左大臣・長屋王(彼も不比等の娘婿)が建てたという北円堂ですが、
    私はまだ入ったことがありません。
    また機会を作って行きたいと思います。