『能楽古今記』序言

「研究して解る」は最低限。「愛着」があってこそ

寝がけにコーヒーなんて飲むものではないですね(笑)

目が冴えて寝られないので、先日読み終わった『近畿能楽記』(大岡山書店、1933年)と同じ野々村戒三による著作『能楽古今記』(春陽堂、1931年)を読んでます。こちらの方が出版が先なので、先に読むべきだったでしょうか。『近畿能楽記』の中にも「○○は能楽古今記に記したが…」といった表現もありました。

その『能楽古今記』、最初にある序言の言葉に思わず頷きましたので、いかに紹介させていただきます。

能樂の材料は、誰も知つて居る通り、古典的な物で、此の古典の解釋は、年を經るに随ひ、次第にむつかしくなつて來る。かくして、伊勢や、源氏や、平家、今昔、といつたやうな古典文學は、特殊の敎育を受けなければ、殆ど理解がむつかしいことになつて來る。尤もむつかしいから、やはりそれだけに研究も届いて來るわけではある。然し、能樂の鑑賞といふ點からいふと、唯だ研究して解つたといふだけでは不十分で、それに對する愛着といふものがなければならぬ。我々が、辧慶の談を聽くと、何となく餘所事でないやうな氣がするが、今の若い人たちには、恐らくさうではなかろうと思ふ。我々は、義經が出て來ると、何だか自分の周圍に居る人のやうな感じがするのであるが、能樂の鑑賞や研究には、さういつた一種の愛着といふものが必要である。所が、それが次第に薄くなつて來る。薄くなつて來た曉には、果して能樂が何ういふ風になるか、是れは疑問であらうと思ふ
野々村戒三著『能楽古今記』

能楽への取っ付きにくさのひとつを、的確に書いてらっしゃいますね。昭和6年時点でこう嘆いてらっしゃいますが、それから80年経った現在、この方向性でいうとますます大変なことになっているばかり。

まず能楽の元になった話を知らない。それらの説明を入れることになるのですが、ただ説明されたたけでは「愛着」に至らないんですよね~。ああ、難しい。

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柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

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