文治元年(1185)、源平合戦の最後、わずか8歳で壇ノ浦で沈んだ安徳天皇を祭った神社です。
『平家物語』先帝身投では、「尼ぜ、われをばいづちへ具して行かむとするぞ」と尋ねる安徳天皇を祖母の平時子が抱きつつ「浪の下にも都のさぶらふぞ」と言って身投したとされており、その菩提所である赤間神宮は「浪の下の都」=竜宮をイメージした門の作りとなっています。
耳なし芳一の伝説の地でもあり、芳一を祭った芳一堂も境内にあります。
本来は阿弥陀寺という寺だったそうなのですが、明治初年の廃仏毀釈の影響で神社に変わりました。現在も地名としては「阿弥陀寺」が残っています。境内に安徳天皇陵があるほか、平知盛・平教経・平時子など平家一門の墓(七盛塚)があり、壇ノ浦で滅びた平家一門の菩提所を、安徳天皇によって代表させた神社といっても良いと思います。
平家一門の霊が滅びの様を見せる能に『碇潜』があります。赤間神宮は『碇潜』ゆかりの史跡、と呼ぶことができるでしょう。特に1999年より時おり試みられている金春禅鳳自筆本による演出では、子方として安徳天皇も登場し、二位尼(平時子)に抱かれて入水する様が演じられますし。
安徳天皇の命日は壇ノ浦合戦のあった3月24日ですが、赤間神宮が神社として成立した明治8年(1875)に新暦に換算、以来5月2日を安徳天皇命日として、毎年3日間に渡って追悼祭典が催されています。